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2009年03月01日
歴史上の政策捏造か ~大化の改新と公地公民制
大化の改新といわれる一連の改革を『日本書紀』編者による創作ないしは後世の過大評価であるとする説があります。大化の改新に関しては疑問点があるのです。
また、公地公民制(こうちこうみんせい)とは、日本の飛鳥時代~奈良時代までの律令制が構築される過程において発生したとされており、全ての土地と人民は公 – すなわち天皇に帰属するとした制度です。日本では、第二次世界大戦以降、公地公民制について、古代律令制の基盤を形成した最重要の制度であると理解されてきましたが、20世紀末期頃からその存在が疑問視されるようになってきました。
今回はその2つの疑問を取り上げたいと思います。歴史上の政策すら捏造されている可能性があるということです。
ポチッと よろしくお願いします。
【大化の改新の疑問点】
1.詔の発布日が春正月甲子朔すなわち正月一日である点。年の変わりに詔を出す事は余り無く、正月一日に発布された可能性が少ないのではないかと言う指摘がある。
2.「郡」(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評」(こおり)を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
3.詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)が所有する部曲(かきべ)や田荘(たどころ)の領有権は認められていた。
4.戸籍、計帳、班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
5.元号が飛び飛びであり、元号が無い時代が存在する。実際に元号制度が定着したのは大宝元年からであり、それまでは元号制度が存在したか疑わしい部分もある。
6.大化2年(646年)に出された薄葬令により天皇で初めて「火葬」され、夫であった天武陵に「合葬」されたのは持統天皇が最初である。詔を発したとされる孝徳天皇が「薄葬」でない(孝徳天皇は654年に、持統天皇は703年に崩御)。
7.蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子は死んだが、大化の改新で、いとこの蘇我倉山田石川麻呂は右大臣になっており、蘇我氏は、大化政権にとっても未だ無視できない勢力を保っていた。孝徳天皇4年、石川麻呂は冤罪で自殺に追い込まれているが、これも大化の政権の政権基盤が脆弱だった可能性を示している。そして、一度蘇我氏の勢力圏の飛鳥から難波宮に移動しながら、蘇我氏の勢力圏である飛鳥に再び戻っている。天智天皇の時代になってようやく、飛鳥から近江へ朝廷を移すことが可能になった。しかし、壬申の乱で、大海人皇子が勝つと再び朝廷は飛鳥に戻っている。天皇家が飛鳥の地を離れられたのは694年の藤原京への遷都からであり、大宝律令が発布されたのは701年である。
以上の点から、7世紀中~後半に、大化の改新と同様な改革が行われたことは、比較的見解の一致するところではありますが、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もあります。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、天皇家の力を伸ばしていった可能性が高いのです。また、天皇権力が強くなる理由のひとつとして、壬申の乱の存在を考慮すべきとの考え方も存在します。律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく『日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられます。
また、公地公民論は、次第に疑問視される傾向にあります。
【公地公民論の疑問点】
1.大化以前の支配体制とされる私地私民制について、屯倉が王権を支える経営拠点であるように、田荘もまた豪族の政治的地位を支える農業経営拠点であると解される。屯倉と田荘は、天皇や豪族らの経営拠点であって、必ずしも天皇や豪族らの私有地を意味するものではなかった。
2.豪族による田荘・部曲の支配は、改新の詔で禁止されたはずだったが、その後も朝廷が田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見される。つまり、土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかったことを表す。これは、公地公民の原則が、当時の社会へ強力に貫徹していた訳ではなく、あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。
3.従来、公地と考えられてきた口分田は、律令施行の当時、実際のところ、私田・私地と認識されていた。公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。すなわち、奈良時代当時、三世一身法や墾田永年私財法の施行によって、公地公民制や律令制に大きな破綻が訪れるという意識は存在していなかった。そもそも当時、公地公民制という概念が存在していなかった可能性が高く、また三世一身法・墾田永年私財法は、むしろ律令制を補強することを目的として制定されたのである。
上記のように、公地公民制が律令制の根幹をなすという従来の通説は、大きく見直されつつあります。
以上はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から省略引用しています。
投稿者 norio : 2009年03月01日 TweetList
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コメント
投稿者 めろん : 2009年4月10日 23:48
壁画の捕虜とは先頭の人でしょうか?
ずいぶん元気がいいように見えますが・・・・
投稿者 Quetzalcoatl : 2009年4月16日 22:09
dokidoki さんに替わって、モチェをもう少し調べてみました。
戦争?関連の壁画がかなりあるのと、たくさんの装飾品と共に立派に埋葬された(王の?)お墓が見つかっています。
壁画では、
盾と棍棒を持ち、腰に多数の首をぶら下げた戦士?の図や、勝った側の指導者が輿に乗って凱旋し、負けた方が裸にされている図などがありました。
負けた方の首を切ってぶら下げるのは当時広く行われた習慣で、首は戦利品であり、かつ、たいせつにされているという事だと思います。
(記事の図版では2人目以降が捕虜で裸にされています。これから首を切られるのでしょうか?)
投稿者 tamura : 2009年4月16日 22:56
モチェは特殊な過程での統合形態なんですね。
武力統合を進めたということは、一定戦争があったということなんでしょうか?
遺跡などからその痕跡が分かれば、統合への過程がより鮮明になりそうですね☆