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2013年05月23日

「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~4.古代豪族はネットワークで結ばれていた2

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 みなさん、こんにちは!前回の記事『「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~3.古代豪族はネットワークで結ばれていた1』は、国内外の闘争外圧、及び、国内の同類圧力(統合圧力)により、古代豪族のネットワーク(=葛城ネットワーク)は、弥生時代以前の縄文人のネットワークを基盤にして、情報ネットワーク→防衛ネットワーク→統合ネットワークと発展し、大和政権が樹立した歴史の流れを検証しました。
その中で
★「古代豪族ネットワークとは、原初の共認ネットワークであり、その延長線上に大和政権も存在する。」
★「私権ではなく共認形成を統合軸とする日本独自の統治形態の根幹を見出すことができる」
の上記の2点が、明確になりました。
日本の各古代豪族が、共認統合を基盤として結ばれていたと考察できます。「大和政権の源流と葛城ネットワーク」の4回目は、これらのネットワークが、縄文贈与ネットワークを基盤に、稲作ネットワーク・銅矛・銅剣・銅鐸ネットワーク、古墳ネットワーク、神社ネットワークという具体的な形式で実現されていきました。
これらを、検証し、各豪族を結び付けている正体はなにか?を見ていきたいと思います。

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 では、具体的なネットワークをみて見ましょう。既に、参考となる貴重な記事がありますので、参照しながら見ていただきたいと思います。
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1】縄文贈与ネットワーク
1.5万年前に始まるといわれる縄文時代は、南方のスンダランド発のモンゴロイドと北方系のモンゴロイドの混血による新モンゴロイドの人々で形成されたと言われています。どちらからというと、南方系の性質を維持しながら、日本に到着し、採取・漁労生産を営み、自然外圧に晒されながら、精霊信仰(アニミズム等)を行い、生き延びてきました。 
このネットワークは、集団間の黒曜石、翡翠などの贈与をもって、豊かな海洋物流ネットワークが展開されていきました。流入民である原日本人の受け入れ体質と寛容性、安定期待と縄文後期の気候変動による集団移動も相まって、このネットワークは大きく拡充していきました。
 詳しくは、その後のネットワーク形成についても触れている
★「日本市場史2~弥生農耕民の従順さと縄文以来の舶来信仰が古代市場拡大の原動力 山澤貴志さん」
★「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流 日本を守るのに右も左もないより」
が参考になります。
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2】稲作ネットワーク
 紀元前10世紀(縄文晩期末~弥生早期)頃から、大陸より徐々に持ち込まれたといわれます。大陸の戦乱より、海を渡り、避難してきた江南系民族によって持ち込まれた稲作は、日本において、弥生時代に西日本を中心に展開していきました。
 特に、2400年前(紀元前400年)前後の中国の戦乱で、呉(2480年前(紀元前473)滅亡)、越(2340年前(前334)滅亡)、楚(2235年前(前223)滅亡)より、多くの避難民が押し出され、半島や列島に渡来・移住してきました。また、稲作と同時に、青銅器と鉄器が伝来し、鉄器は武器・農耕器具に使用され、青銅器は祭祀器具の原材料となり、稲作は急激に全国的に拡大します。このネットワークの担い手は、もともとの縄文人と混血していった中国江南地方の呉人・越人・楚人と呼ばれる弥生人で、中でもとりわけ越人が主役となります。
 詳しくは、
★「縄文人の信仰はいかにして受け継がれたか(2)弥生時代の農耕神と祖霊祭祀の登場 内藤琢さん」
の記事が参考になります。
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3】銅鐸、銅矛・銅剣ネットワーク
 縄文時代から自然信仰が根付いていた日本に、渡来系の新しい信仰(農耕神信仰)が持ち込まれました。2300年前に、不老不死の仙薬を求め、蓬莱山を目指した徐福と共に日本に渡来した人々が主役となります。一回目に徐福と共に敦賀(若狭湾付近)に渡航した海部氏、尾張氏→加茂氏、紀氏ら(葛城氏も?)が、銅鐸文化圏を形成し、二回目に北九州に徐福と渡航した物部氏・忌部氏・度会氏らが、銅剣・銅矛文化圏を作っていきました。
 物部氏の祭祀担当でもあったと言われる忌部氏や海部氏は、もとを糺せば、同族で、また、加茂氏・尾張氏は、海部氏の支族ともいわれます。その中でも、籠神社の社家である海部氏の系譜には、二人の日女命(卑弥呼)が記載されており、邪馬台国の卑弥呼と台与とも言われ、北九州の物部氏系が東征して、近畿で同族の海部氏系と合体して築かれたとも言われます。
 また、銅鐸から銅剣・銅矛への移行は、この物部氏への権力移行(権力移行といっても、戦争によるものではなく「連合」という形)であったと思われます。
青銅器は、1世紀末に出現、3世紀半ばで消滅し、古墳造営に切り替わります。
 詳しくは、
★「賀茂・尾張氏(銅鐸)→物部氏(銅剣・銅矛)→崇神朝(古墳) 山澤貴志さん」
★「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ2 日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷 日本を守るのに右も左もないより」
★縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
を参照してください。
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4】古墳ネットワーク
 国外の戦争圧力の高まり(高句麗の圧力)と国内の同類圧力の高まり(東国=高句麗系民族)に対して、古代豪族連合は、320年前後、大和政権樹立を決意し、緩やかな大和連合を形成していきます。さらに、その圧力と半島の百済・新羅の建国を見て、350年前後に、豪族連合(葛城氏、秦氏、加茂氏ら)は、伽耶王族である崇神天皇を招きいれ、大和朝廷を作り、後、百済王族の応神天皇を招き、480年頃、河内王朝を建国しました。
この間、高句麗や東国へ威嚇をこめて、3世紀半ば(崇神朝)から7世紀(高句麗衰弱時期)まで、古代豪族の連合(葛城氏、物部氏、海部氏、加茂氏、紀氏、尾張氏等)が、秦氏が半島から持ち込んだ土木技術を利用して、古墳造営の一大事業を展開していきました。
 巨大古墳造営のネットワークを構築することで、各氏族集団の結束を高め、武力支配ではない集団間の結束を実現していったと思われます。
 詳しくは、
「弥生時代再考(3) 古墳の謎を一挙解明 当ブログより」
★「天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ3 ~高句麗に備えて亡流百済人と手を組んだ葛城~ 日本を守るのに右も左もないより」
が参考になります。
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5】神社ネットワーク
 古墳造営のネットワークは、中央への集権を強固にする機能も有していました。徐々に高まる、国内外の戦争圧力、私権圧力、市場原理の圧力を背景にして、各豪族の神格を中央政権の王の神格へとつなぐことを画策します。これが、神社ネットワークでした。物語として、各地の神話伝承と中央政権の王の物語をつなぐことで、現人神信仰、万世一系という共認軸を完成していきました。それらは、事実とは異なることを知りながら、共認統合のための方便として、集団間の統合軸として必要、この方が上手くいくと、多くの豪族が判断し、従ったと思われます。
 また、神社への奉納は、徴税制の機能を有しており、直轄領や屯倉(徴税機関)などの中央集権が推し進められました。
 さらに、神社ネットワークは、諜報機関としての機能をもち、特に、秦氏、加茂氏が活躍しました。葛城氏の支族である加茂氏(忌部氏の支族でもあるといわれる)は、秦氏との関係が強く、ほとんどの神社に絡んでおり、衰退する物部神道(国津神系)の神社を乗っ取ったとも言われます。その後、加茂氏や秦氏は、陰陽道、修験道や山伏へと続き、裏に隠れていきました。加茂氏や秦氏が全国に神社を建設し、展開していった、この神社ネットワーこそ、豪族(葛城)ネットワークの完成形であったと思われます。加茂氏、秦氏からこれらを受け継いだのが、中臣氏、いわゆる後の藤原氏だったようです。
 詳しくは、
★「神社ネットワークから徴税制度へ 内藤琢」
を参照下さい。
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 上記のように、日本では、古代より、集団間を統合するために、分裂や分派・闘争を避け、弥生時代に始まる私権社会の圧力と国内外の同類圧力を止揚するために、共認統合ネットワークを形成してきたことがわかりました。
 権力・武力を行使するのではなく、ともに、安定・秩序化・協調を目指す、共認統合による集団間の関係は、徐福の到来以降、葛城、海部、物部、加茂、秦、蘇我、藤原に代表される渡来豪族が担っていたこともわかりました。その紐帯を支えたものはなんだったのでしょうか?それは以下が考えられます。
1】大陸では辺境の地の民族
 中国の中原を支配していた漢民族からみれば、彼らは、東夷・西戎・南蛮・北狄と言われた地に住む氏族を出自とする部族と考えられます。彼らは、いつも侵略してくる野蛮な民族と見られていたようです。大陸でも肥沃でない辺境の地に追いやられた人々で、もっと古くは、西アジアの戦乱から、逃避してきた支族であるとも考えられ、混融しながら、同族意識を高めていった可能性もあります。
中華思想
東夷(とうい)
 :古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本・朝鮮などの東方諸国。
西戎(せいじゅう)
 :所謂西域と呼ばれた諸国など。羊を放牧する人で、人と羊の同類。春秋戦国時代は秦王朝。
南蛮(なんばん)
 :東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。虫の同類。
北狄(ほくてき)
 :匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方諸国。犬の同類。
2】大陸の戦乱、権力闘争から逃げ延びた弱小民族
 渡来人である各豪族の大半が大陸や半島の戦乱や私権闘争を経験しています。出自の異なる私権性を帯びた集団の逃避先として、この極東の地=日本に渡来した場合、集団間統合が困難になり戦争に発展するはずです。弥生~古墳、飛鳥、奈良、平安時代の最大の圧力は、私権原理と国内外の同類圧力(戦争圧力など)です。これらに対抗し、集団間の関係を保つには、力の序列原理(武力、上下関係等)をもって押さえ込まなければなりません。しかし、日本では、戦争が少なかったと言われています。それは、大陸での弱小民族で負組であったため、戦争や権力闘争の無意味さを承知していたのかもしれません。
 
3】同族意識の高い部族どうしであった。
 仮に、彼らが、戦乱を避け、極東の地にたどり着いた同族意識の高い集団どうしであったら、どうでしょうか?
葛城氏、物部氏、蘇我氏、大伴氏、加茂氏、海部氏、忌部氏、卜部氏、宗像氏、三輪氏、大神氏、尾張氏、度会氏、平群氏、紀氏、巨勢氏(中臣氏、藤原氏、秦氏も含まれるかもしれません)・・・・さらに、徐福の徐氏まで。
 日本の支配層の意識や文物にのこる古代宗教(ユダヤ教、原始キリスト教、神道など)、現人神信仰、天孫降臨神話、万世一系などの観念などは、現実とは異なる事を自身で知りながらも、共認の方便として使えたのは、彼らの出自の基層でそういった観念を持ち合わせていたからだろうと思います。
 また、かれらは、渡来前から、自部族の落ち着く場所を建設する願いが強く、新天地における集団の繁栄は悲願であったとも考えられます。
 これらを基盤として、神社ネットワークを構築して、闘争を回避し、共認・観念統合を推し進めていったのではないでしょうか?
しかし、上記だけでは、各氏族間の紐帯を強固にする引力にたりないように思います。その紐帯を支えた決定的な要因は、母系・母権制の婚姻様式ではないかと考えられます。
★★4】母系制・母権制を有する民族★★
 現在の私たちの感覚では、一氏族から、分派・独立し、男系相続で多くの支族が派生してゆくと、常識的にと捉えています。たとえば、平安時代の清和源氏は、時代と共に、一族を増やし、新田・足利氏が派生。足利氏より、細川家、畠山家、斯波家などが分派していきます。戦国時代以降、このような傾向にありますが、古代の豪族たちは、上から下に枝分かれするのではなく、下から上にまとまっていく傾向にあるのです。豪族同士(また、中央の天孫族等と)が入り婿、妻問いとして、婚姻関係で結ばれて、同族として機能してゆく構造は、現代の感覚とはまったく逆です。
 上記で見たように、各豪族が同族であると言われる由縁は、この母系・母権の婚姻によってつながるということのようです。もともと、母系、母権制の婚姻様式を有していたとも考えられますし、縄文の受け入れ体質、母系集団にふれ、そのほうがうまくいくと認識したのかもしれません。
下から上につながっていく集団間統合様式を司った、充足発・闘争回避の女性原理は、豪族どうしの紐帯を支えた大きな要因ではなかったか?と考えられます。
詳しくは下記の記事が参考になります。
★「天皇制が担っていた役割とは何か 田野健さん」
★「摂関政治がうまくいったのは日本が母系社会だから 山澤貴志さん」
さて、いかがでしょうか? 稀に見る日本の共認原理によるネットワークの構築とは、戦乱から逃げ延びた辺境の民、観念としての同族意識をもち、母系・母権制の残る婚姻でつながった豪族・氏族が、極東の地=日本を守るために、共認統合の社会をみなで目指した結果だったのではないでしょうか?
 次回は、古代日本独特の古代豪族の母系・母権制を規範とする国家統合の在り様を深めていくことにしましょう。

投稿者 2310 : 2013年05月23日 List  

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