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2013年01月28日

弥生時代再考(2)渡来人が成した金属信仰~青銅に神が宿る

 弥生時代は稲作農耕の始まりでもあり、金属器の始まりでもありました。そこで今回はこの「金属器」に焦点を当てて弥生時代から古墳時代への変遷を追っていきたいと思います。
 ここでいう金属器とは青銅器鉄器のことで、中国やヨーロッパでは、先に青銅器が、後に鉄器が使用されるのですが、日本ではほぼ同時に使われ始めました。それぞれの特徴を生かして、堅くて丈夫な鉄器は、主に農耕具などの利器として、柔らかく加工しやすい青銅器は、神具として発展していきます。
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   銅鐸       銅剣
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    鉄の農具
 今回の記事では、西日本のほぼ全域に分布し、さまざまな形をもった青銅器製祭器について書いてみたいと思います。

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■弥生時代の渡来人経路
 まずは弥生前期から中期にかけての渡来人の動きをおさらいしていきます。
 大きくは春秋戦国時代での敗北者が亡命して100年ずつ遅れて列島に漂着します。
前5世紀前半、呉の滅亡に伴い呉の流民の一部が九州、瀬戸内へ流入します。北九州は呉人が巨大集落を作り、その後朝鮮半島南端の伽耶連合と連携しながら1世紀には九州王国を作ります。
 
 呉人から遅れること1世紀、(前4世紀半ばには)越が滅亡、越人の亡命者はすでに呉がいた九州を外して出雲、北陸へ定着します。最後に渡来したのが楚の亡命者です。楚は始皇帝によって万里の長城建設を依託されており、朝鮮半島の辰韓のあたりに居住しながら建設に借り出されます。あまりの重労働に途中からリタイヤし、始皇帝の監視の目を摺り抜けて日本に亡命します。楚人は辰韓から渡っており、出雲に定着、丹後を経てまだ渡来人が定着していない近畿に前3世紀後半に到着します。徐福伝説の渡来時期と楚人のそれが重なる事から、徐福も同一経路を辿った可能性があります。
(簡単にまとめると以下のようになります)
呉人―九州・瀬戸内
越人―出雲・北陸
楚人―出雲・近畿
■日本で青銅器が祭祀具としてのみ使用されたのはなんで?
 世界的に見ると、青銅器の文化が1000年ほど続いた後に鉄器が普及します。そしてメソポタミヤのヒッタイトや中国の秦の事例からも分かるように、鉄器を制するものが国を制すと言っても過言ではないほどに、鉄器は武器として重要視されてきました。
 しかし、こと日本においては、青銅器と鉄器が同時に入ってきたにも関わらず、青銅器がどんどん普及していきます。さらに、武器ではなく、祭祀具として利用されています。
 これについては、2点の理由が考えられます。
 一つ目は、金属器を携える渡来人が平和志向の縄文人を支配するのに、金属の武器は必要ありませんでした。武力は行使するまでもなく、ちらつせるだけで容易に支配する事が可能です。渡来人はそのような縄文人を見て、やがて鉄器よりも青銅器の方が有効であること知ります。鈍く光り輝く青銅器で細工を施し、権威と神話的呪力を示すだけで縄文人は十分に支配できたのです。もちろん青銅器の方が手に入りやすく加工もしやすかったという利点も合わさります。
 二つ目は、渡来して以降の金属資源の乏しさです。渡来して以降は金属資源はもっぱら朝鮮半島からの輸入に頼っていました。そこでは少ない金属器を効率的に利用していくことが必要となります。金属器は(必要性の低い)武器で遣い捨てるような使い方ではなく、価値を高め、長い間利用する祭祀具としての使い方を必然的にするようになりました。
 しかし、その青銅器も地域によってさまざまな型をもっていました。
■北部九州を中心とする銅矛・銅剣文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏とに分かれたのはなんで? 
 弥生時代には、地域ごとにそれぞれ特徴をもったさまざまな青銅製の祭器が生み出されました。考古学的に細かく見ていけば、いろいろな型に分類されることになると思いますが、それらを一旦棚上げすれば、下図のように大きく二つに分けられると思います。つまり、北部九州を中心にした銅矛・銅剣文化圏、近畿を中心とした銅鐸文化圏です。これは、別の言い方をすれば、武器型文化圏と鐘型文化圏と言うこともできると思います。
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 では、この北部九州と近畿の違いはどこから来たのでしょうか。
 北部九州は大陸にもっとも近く、渡来人の流入が最も多かった地域です。また渡来人の流入は断続的で、それゆえ渡来人同士の争いも時期を追うごとに激しさを増していったと考えられます。このような地域で、ムラの規模を大きくし、自らの権力の大きさを誇示するには、権力を示すのに直接的な武器型の祭祀具が最適だったのだと考えられます。
 それに対して、近畿では、太平洋側に位置しているため、渡来人の流入頻度は北部九州や出雲に比べて少なくなります。また、縄文晩期から弥生時代初期にかけて西日本では人口密度が増加しています。これは、晩期の急激な寒冷化により、縄文人が南下したためと考えられます。つまり、近畿の渡来人には、少ない人数で相対的に多い縄文人を従える必要があったのです。そこで近畿の渡来人は、武器ではなく、鐘型の青銅器を用いて彼らの警戒心を解き、共感を得、集団に迎え入れてもらったのではないでしょうか。そして徐々に縄文集団の中に信仰心を作り出していったと考えられます。
 九州の直接的でわかりやすい武器による支配形態に比べて間接的でわかりにくい支配手法が近畿の銅鐸でした。しかしいずれの地域も渡来人が縄文人を支配下に組み込み、やがて序列社会の頂点に君臨したのは変わりなく、青銅器はその為の有力な材料だったのです。
 このように、まったく異なった支配形式である二つの地域ですが、その後の歴史を見ていくと、明暗ははっきりと分かれているように思えます。銅鐸を大型化させ、ムラを巨大化させ、墳丘墓をつくり、大和朝廷へと繋がった近畿、それに対して、最終的に墳丘墓に葬られるような大酋長が誕生せず、他の地域へ銅や鉄を供給する側へとまわった北部九州、結果は歴然です。そして、この近畿型の支配構造=共認支配こそ、その後の日本の主流となっていきます。
■青銅器が突然無くなったのではなんで?
 このように、弥生時代の文化に大きく貢献した青銅器ですが、弥生時代後期3世紀中頃に青銅器祭器が急に見られなくなる地域が出てきます。それが出雲です。島根県の荒神谷遺跡では、銅剣が358本および銅矛16本・銅鐸6個が地中に埋められており、これは出雲の人たちによる青銅器の祭りが行なわれなくなった証拠として考えられます。そして代わりに突然、1辺40m高さ4mの巨大な方墳(4隅突出墳)が作られました。
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 これはどういう事でしょうか?
 以下は私たちの仮説です。
 作り出された墳丘墓が方形で、その後も出雲では前方後方墳が30基以上作られていきます。おそらく3世紀中頃に高句麗の一派が出雲に到着し、当時の出雲勢力を従え、巨大古墳を作り上げたものと思います。方墳は高句麗にしか見られず、またこの時期に青銅器文化を停止するほどの大きな変化を与えられる実力者は高句麗を除いてありません。高句麗は当時朝鮮半島全体を支配する為に着々と進撃を続けており、挟み撃ちをする為に日本列島内に拠点を造っていきます。
 つまり出雲に高句麗勢力が入り込み、国内の圧力が突然高まった。
それを受けて今度は大和が動き始めます。大和も半世紀後には銅鐸文化が終焉し、古墳文化へと移行していきます。
この辺りのくだりは次の章、「古墳の謎を一挙解明」に委ねたいと思います。
 最後にこの弥生時代に花開いた青銅器信仰はその後どのように残されて言ったのでしょう。古墳時代も銅鏡という形で脈々と残り、さらには神社では鐘として使われていきます。やはり青銅に神が宿るという信仰は日本人の心根に受け継がれてきました。それは支配の為でもありましたが、それを信仰した縄文人の側の心理は、「信じて疑わなかった」のではないでしょうか?現在のマスコミにいとも簡単に共認支配される日本人の姿と重なります。
(カッピカピ)

投稿者 hi-ro : 2013年01月28日 List  

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