宗教ってなに?番外編~インドに仏教が根付かなかったのはなぜ?①~ |
メイン
2010年05月29日
平城京に遷都されたのは、なぜか? 平城京から遷都されたのは、なぜか?
平城京は710年に遷都され、以後約80年に亙って律令制国家・日本の都であった。
710年に平城京に遷都されたのは、なぜか?784年に平城京から遷都されたのは、なぜか?
様々な理由が挙げられるが、その大きなものの一つに国家統合の主導権争いがあった。
■平城京に遷都されたのは、なぜか?
日本律令制前夜、古墳時代後期から飛鳥時代に掛けて、日本列島の国家統合史は、神道と仏教の主導権争いの歴史でもあった。古墳時代・ヤマト朝廷において、強い力を持っていたのが葛城氏で、彼らは神道によって集団や国家の統合を図った(葛城神道)。しかし、強大な力を誇った葛城氏は、中国大陸・朝鮮半島との外交関係を巡って大王家(→天皇家)と対立、首長が大王家によって殺害され、以後没落の一途を辿る。
次の古墳時代後期、大王家の権力と権威が確立されていくにつれ、力を伸ばして行ったのが物部氏であった。物部氏も神道による国家統合を図ったが(物部神道)、当時最先端の文化であった仏教を取り入れた蘇我氏との対立が深まっていく。物部氏は蘇我氏によって滅ぼされ、天皇家と蘇我氏によって仏教による国家統合が進められた。
しかし、その物部氏も乙巳の変(大化の改新)によって天智天皇と中臣氏(後の藤原氏)によって滅ぼされる。中臣氏は物部神道を改良した中臣神道による国家統合を図った。
続く天武天皇は、神道による国家統合を進め、伊勢神宮を頂点とする神社序列(神社ネットワーク)を構築、神道を利用して律令国家への足がかりを作る。
以後、天皇が代替わりするたびに遷都されるほど、都の位置は変わっていたが、その中心は飛鳥の地であった。
遣唐使を復活させ、本格的な律令制国家の構築を目指した朝廷は、代を超えて発展していく都城の必要に迫られていた。また、天皇家との結びつきを強めていた藤原氏は、飛鳥を中心とする旧来の豪族勢力の力を殺ぐ必要があった。そこで、飛鳥の地から離れた奈良北部への遷都を実行に移す。平城京である。
■平城京から遷都されたのは、なぜか?
奈良時代はそれほど大きな戦乱が無かったこともあって比較的平和な時期が続く。”荒ぶること”でその権威を示してきたカミの影響力が薄れ始め、仏教が広まっていった。当時の都、平城京にも仏教の寺が移設・新築されていった。
神道と仏教、それに加えて律令を広め共認させることによって、日本列島も国家としての体を成していったが、その中でも天皇家をも凌ぐほどの権力を握り始めたのが藤原氏(中臣神道)であった。
この藤原氏支配とも言うべき状況を突破し、新しい国家統合の枠組みを再構築しようとしたのが、聖武天皇だった。 彼は仏教による国家統合を更に推し進め、東大寺を頂点とした国分寺・国分尼寺のネットワークによって、国家の再統合を図った。
しかし、皮肉にも東大寺建立が、平城京からの遷都を決定付けることになる。東大寺大仏は全身に金メッキが施されているが、金メッキは金に溶ける性質がある水銀を金に溶かし、その溶かした液体を像に塗り、熱を加え水銀だけを蒸発させることで金メッキができる。この時、蒸発した水銀が平城京の空気を汚染し、水銀による中毒症状が多発した。当時は水銀の影響であることが分からないまま、祟りだと恐れられ、(祟りを鎮めるために)都を移す気運が高まっていった。
一方、奈良時代を通じて、藤原氏を初めとする氏族間の闘争と、それに伴う政変劇が繰り返されていた。そして、とうとう天武天皇系の子孫が途絶えたため、氏族間での話し合いの結果、天智天皇系の子孫が天皇位に担ぎ出される(光仁天皇)。その息子・桓武天皇は、平城京において実権を握っていた貴族階級及び仏教勢力と手を切り、新たな国家統合を模索するため、平城京からの遷都を決断する。と同時に、新しい国家統合観念(宗教)を構築するため、2人の僧を唐に派遣する。
こうして、平城京から長岡京、そして平安京へと都は移っていった。派遣された2人の僧・最澄と空海は、帰国後、天台宗と真言宗を立ち上げ、平安京における国家仏教の確立に尽力する。加えて渡来系氏族の神社が、平安京に続々と設立され、それまでの神社を組み込んだ階位が定められる。以後、400年に亙って、仏教と神道によって国家が統合されていった。
(ないとう)
投稿者 staff : 2010年05月29日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/05/1071.html/trackback
コメント
投稿者 2310 : 2010年8月21日 19:12
こんばんは。
こうしてシリーズ化されると、すごく役に立っていいですね。
縄文ブログの今後もますます期待しています。
投稿者 チバ : 2010年8月21日 19:14
2310さん訪問ありがとうございます。
膨大な量の記事と情報ですが、これらを作るのにかけられた時間、手間やその製作の思いを考えると一つ一つの記事が非常にありがたいものに思えてきます。
同じ”読む”でも自分の知識の為ではなく、その記事を書いた記者の思いを考えながら読むと面白いと思います。
投稿者 tano : 2010年8月21日 22:44
チバさんコメントありがとうございます。
縄文ブログもこれからは他ブログとの網の目の連携を取りながら継続させていきたいと思います。
投稿者 tano : 2010年8月21日 22:47
いやはや、サイトを覗いてみたのですが、すごい大作で、いまだに読みきれていません。婚姻史や日本の支配構造や日本語の成り立ちシリーズは、いまもって不明な部分があり、これを読めば、その社会の構造がよくわかると思われます。ご紹介、感謝いたします。