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2008年08月01日

新説「古墳はビビらす為に作られた!」

こんばんわ!
古墳は何の為に作られたのか?
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古墳は3世紀後半から7世紀まで北海道、東北地方、沖縄を除く各地に作られました。
その数は夥しく近畿、関東、九州と凡そ人の居たところには古墳ありという状況です。
またその形も方形、円形、前方後円とさまざまで同じように古墳文化が発達した中国、朝鮮に比べてその数も規模も形態も著しく突出しているのです。
これは何を示すのでしょうか?なぜこんなに古墳が作られたのでしょうか?

①中国、朝鮮の文化伝来説~古墳は日本で作られる前から中国、朝鮮にあった!
②日本オリジナル説~前方後円墓は中国にも朝鮮にもない!

しかし これは現在の考古学の世界でも諸説がありまだ明らかになっていません。
というかこの時代にこれだけの古墳ができたのは謎であるとさえ言われています。
ではなぜ古墳はこれほどまでに作られたのでしょうか?
今日はこの問題に切り込んでいきたい 8) と思います。
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いきなり答えからですが、
要するに「中国や朝鮮と比べて日本はまだ平和だったから」というのが基本回答です。 🙄
古墳をこれだけ作る事ができたということは戦乱状態であれば不可能です。事実、中国、朝鮮は巨大古墳はあるものの古墳の数自体はそう多くありません。
中国は未だ国家統一を果たしておらず、国内の内戦、高句麗や百済との勢力争いなど大陸での戦乱が続いていました。中国が明確に外圧として登場したのは隋統一以降です。
また朝鮮半島も百済が統一国家として形つくられたのは4世紀以降です。
しかしながらこの時代、渡来人が作った社会が各地に併存し、人口も飛躍的に増加、倭国大乱などの内戦も引き起こし一触即発の国内事情にあったのは事実でしょう。
もう一つの答えが「でかい古墳を作って相手をビビらす」・・・⇒「ビビらすことで戦争を回避する」という作戦です。 🙄
つまり、この時代日本をとりまく外圧とは以下のようになっていたのではないでしょうか?
・中国、朝鮮からの戦争圧力は高くない。⇒国家間外圧は低い
・国内の部族間の戦争圧力は高まっている。⇒部族間外圧は高い
・部族連合、人口増で急激に増加した民を統合する圧力が高まる。⇒部族内内圧は高い

なぜこんなにも馬鹿でかい古墳を作ったのか?それも高台に・・・。
うちの首長はこんなに力があるんだぞ、と周囲に知らせ攻め込ませないようにさせたのではないでしょうか?あるいは古墳で力を示す事で部族間の序列を確認しあったのではないでしょうか?
「序列を認め合う事で殺し合いを避ける」⇒いわゆる私権社会の基本原理がこの時代にまず拡がっていったのだと思います。
次になぜこんなに手間のかかる作業をしたのか?
これにはピラミッドや巨石文明に見られる集団統合の鉄則が当てはまります。
るいネットにはこれを以下のように書かれています。
エジプトとローマ帝国の類似性からみたピラミッド建設の意味
いつの時代も巨大構築物の作業は多くの人の手を必要とします。その作業を権力者の手で指導し作らせる事で超集団を統合する事ができます。その核心にあるのが祖霊信仰という神観念の創出です。
父系社会への転換を基点に祖霊信仰を使って人々の意識のなかに秩序を作り出したのが古墳文化の根幹にあったのだと思います。
つまり、大陸から取り入れた急激な権力社会への移行によってバラバラになりかけた超集団の意識をまとめる為に用いられた最も解りやすい方法が「大きな古墳をみんなで作る」という課題だったのではないでしょうか。
「みんなで巨大古墳を作ってビビらそう!」「我らの父、○○を厚く葬ろう」こうやって当時の生真面目な弥生縄文混血人達は古墳製作に精を出したのかもしれません。
ヒマとビビらし判りにくい古墳もこうやって見ていけば見えてくる部分もあるのではないでしょうか?
最後に古墳文化の定説を解説していただいているサイトを見つけましたので紹介しておきます。
これも参考に読んでみてください。 福島県文化財センター「まほろんのHP」
古墳の出来方は前期―中期―後期と大きく分かれるそうですが、中期までは目一杯びびらしていたみたいですね。後期はその効果が薄くなってもう少し制度的に扱われたようです。
薄墓令が646年に敷かれますが、中国からの外圧を前に、当時の統一首長が各地の部族に向かって「おい、古墳を作ってびびらせている場合じゃないぞ、中国はすぐそこまで来ている!」と号令をかけたとかかけないとか・・・ 🙂  tanoでした。

投稿者 tano : 2008年08月01日 List  

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コメント

わかりやすいグラフの提供ありがとうございます。
この消え方は衝撃的ですね。
そういえば同じように日本でも三内丸山で忽然と歴史が途絶えています。
このグラフ以上のすさまじい寒冷化が襲ったのでしょう。
移動した民族は本当に日本に来たのでしょうか?
気候だけなら南下しそうなものですが・・・。
それ以外に海上に人を押しやる勢力があったように聞いています。

投稿者 tano : 2008年9月10日 02:40

いえいえ。安田さんの見方は、とても整合性があって大きく事実を捉える上で今後も色々文献を読んでみようと考えています。
>気候だけなら南下しそうなものですが・・・。
>それ以外に海上に人を押しやる勢力があったように聞いています。
実は、僕も普通なら南下するんじゃないか?と考えていました。次回その当りを根拠固めといきますか!

投稿者 さーね : 2008年9月10日 23:38

webみてたら、稲の品種も犬の遺伝子も長江以南起源と証明された文献が検索上位にきますね。
⇒ある部族は南下し、ベトナム、ミャンマー等の地へ
というのは遺跡出土品や文様、篆刻画が長江文明とベトナムで類似していることが指摘されていますね。
長江以南や台湾には元々漁労をいとなむ人々がすんでおり(オーストロネシア族)それが気候変動やアルタイ系VS漢の戦乱で日本にきたのでしょう。
北京語や漢文では{~の」という助詞は「~的」(~de ダに近い音)と表しますが、上海~蘇州で今も地元民がはなす呉語では「~ga」(ガ) 浙江や福建では「~e」(エ) 広東語では「~ge」(ゲ)という助詞がつかわれます。「わたしのくに」を「わ”が”くに」「君の治世」を「きみ”が”よ」と日本語で今でも言うのは、同じガを助詞としてつかう人々が古代には長江以南と日本に同時に存在していたことの名残だと思います。

投稿者 たかみ : 2013年4月14日 23:03

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