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2013年05月04日

伽耶を知れば古代日本が見える5~~いざ、大和へ~大和朝廷は伽耶人が作った高句麗対抗国家

第3回で伽耶の特徴として武器商人国家である事をあきらかにしてきました。
1世紀から登場する金官伽耶がそれをリードしていきます。
金官伽耶はその歴史の過半は半島内での高句麗や新羅との戦いでした。
また、早くから日本に拠点を作り伽耶の鉄のネットワークを形成しています。
この伽耶と日本の交流は伽耶滅亡を経てやがてひとつになり大和朝廷を形成します。
今回はその過程を見て行く中で大和朝廷の源流に伽耶があり、それを促した中心に高句麗がある事をあきらかにしていきたいと思います。
【市場拡大の目的で作り上げられた九州―畿内のネットワーク】
伽耶と日本の関係を語るとき、大きく2つの地域に分けて考えていきます。
一つは九州。もう一つは大和朝廷が生まれた近畿地方です。
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こちらよりお借りしました。
伽耶の主力は初期、地域的繋がりから北九州に定着します。朝鮮半島と目と鼻の先にある北九州は早くから伽耶の氏族が渡り、土着の弥生人(江南人+縄文人)を従え、鉄の王国を作り上げます。俗に言う九州王朝で早良国とも言われています。
北九州には100余国とも言われ、その大半が伽耶の氏族が渡って作った小国だったと思われます。
これが1世紀から2世紀で、鉄を圧倒的に所有していた北九州の小国家はそれぞれが伽耶と連携して鉄ていを輸入し、国内で加工し鉄具を作り耕作地を拡大していきます。北九州で農地が飽和すると、瀬戸内海を経由して畿内に入ります。そして畿内で最初に農地が拡大したのが奈良県東部にある唐古・鍵遺跡です。

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【物部氏は流通経路拡大の尖兵豪族だった】
この九州から畿内への移動は歴史書では神武東遷などと武勇伝のよう書かれていますが、実態のところは伽耶の金属市場を拡大していく流通経路の拡大と見ればよいのではないでしょうか?
当然唐古・鍵遺跡の耕地拡大には大量の鉄具が使われただろうし、その後の畿内の開拓にも鉄が重要視されていきます。そして、この唐古・鍵遺跡には物部氏が深く関わっています。
物部氏はその後全国に広がった豪族で、日本の古代豪族で物部氏のように拡大した豪族はいません。また物部氏は謎の豪族と言われており、出自も明らかになっていませんが、物部氏こそ、伽耶の拠点拡大、鉄の流通経路を各地に広げた尖兵豪族だったのではないかと見ています。実際にも、物部氏は大和朝廷の中では武器庫を管理する豪族で、当然伽耶から鉄を流通させ、農具や武器に加工して各地に配送していたものと思われます。
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物部氏の石神神社での七支刀~こちらより
【大和朝廷は対高句麗の為に作られた伽耶出張所】
大和朝廷の源流はこのように1世紀の唐古・鍵地域にあるのですが、実際に勢力を集め力を持ち出すのは3世紀半頃です。以前当ブログ(出雲は縄文である)でも書きましたが、大和朝廷結成の要因として3世紀に出雲で建国した高句麗系国家の存在があります。それまでの伽耶人が定着していた出雲族を後発の高句麗が武力で乗っ取り、そのまま王朝を建てます。
西日本が高句麗に占領される事に危機を感じた伽耶の畿内勢力は各地に散らばっていた伽耶系豪族集団を結集し、一大勢力を形成します。
【古墳建設は高句麗日本支配への対抗戦略】
既に伽耶母国でも高句麗の広開土王の時代に金官伽耶は攻め込まれ、疲弊している時代でした。高句麗の脅威を母国で厭というほど味わっていた伽耶の情報を得ていた畿内伽耶系氏族は高句麗と聞いただけで身の毛が逆立った事でしょう。
以降、本国からの援助(秦氏の渡来)を受けながら、出雲の高句麗拠点を徐々に押し返します。最も効果的だったのが巨大古墳の建立で、次々と古墳を作る事で力を示し、高句麗の西日本進出を断念させます。
そしてこの時に役に立ったのが物部の鉄と伽耶から大量渡来した鉄の技術集団―秦氏です。秦氏は、万里の長城建設にも力を発揮した技術系氏族ですが、この時期大量に日本に渡来しており、大和存続の危機を聞きつけ本国伽耶から送り込まれた氏族ではないかと推測も立ちます。
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画像はこちらこちらからお借りしました。
また、伽耶本国から見れば大和朝廷は鉄の需要者としては非常に大きな市場で、古墳建設をあたらな武器に代わる鉄市場の開拓として考えていた可能性もあります。
古墳建設には土の掘削に大量の金属具が必要で、またそれによって農地が開墾され、農具としての鉄具も多く使われます。
このように伽耶の鉄が大和朝廷の拡大、国内に入り込んだ高句麗威嚇への武器に使われ、その後の大和朝廷の力の基盤となっていきました。ここに物部、秦氏が絡んでいたのは事実でしょうし、また伽耶の豪族の取りまとめとして当時畿内をしきっていた古代豪族葛城もまた、伽耶系出身の(かなり古い時代に日本に渡来した)豪族でした。
【伽耶滅亡後に登場した“百済どうする”の課題】
大和朝廷はその後、本国金官伽耶の滅亡によって次の段階を迎えます。
滅亡前夜には金官伽耶から王族が流れ込みますし、滅亡した後は伽耶系氏族が一気に日本に流れ込んできます。そして同時に敗走を重ねていた百済系の豪族もこの時期同時に日本に入り込みます。半島との対決を覚悟した大和朝廷はいよいよ日本国内でも百済と手を結んで国づくりをする決意を固めます。5世紀末には百済から応神天皇を迎え入れ、さらに大量に入植した百済人を組織化するために優秀な官僚が必要になります。それが後に渡来し、大和朝廷を伽耶人に代わって牛耳るようになった蘇我氏だったのです。(百済どうする~の続編は次の記事で扱います)
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大和朝廷の想像画~こちらよりお借りしました
★★まとめ★★
伽耶と日本の関係を最後におさらいします。

元々は伽耶の日本交易拠点として紀元前から北九州中心に氏族が渡る。
彼らが市場拡大を目指して畿内に入る。それが唐古・鍵遺跡で、その役割を担ったのが物部。物部は引続き、日本各地に伽耶の交易拠点を作り鉄の氏族として土着化していく。
伽耶本国は高句麗侵略の危機で誕生した大和朝廷をバックアップするとしながら対高句麗の武器と威嚇の為の古墳造成に金属を大量に売り込む。
やがて伽耶が滅亡。
本国の金属技術と共に日本に移動、軍事力強化の為に百済系を取り込むことを決意。
伽耶王族が裏でプロデュースしながら、表向きは百済中心の国が出来上がる。
これが大和朝廷の真相である。

今回の記事では伽耶と大和を市場という切り口で見てきましたが、別の視点で見れば、伽耶は海という防衛力を備える日本の地をもっと切実な場として捉えていた可能性があります。伽耶とは半島内で常に戦争圧力に苛まれていた小国で、いざという時に避難する先を確保しておく必要性が建国当時(紀元前)からありました。
大和朝廷建国は伽耶が軸足を半島から日本に移し始めた時代と重なっています。金官伽耶は532年に滅びますが、大和朝廷は5世紀後半に500mクラスの巨大古墳を作り続けています。
当初は商売をする為の交易の拠点として日本に拡がった伽耶勢力ですが、その拠点が伽耶の有事の際の支援後方部隊にもなり、高句麗、新羅に攻められて国土を失った後では、拠点が伽耶そのものになっていったのです。

投稿者 tano : 2013年05月04日 List  

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