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2008年11月08日

大化の改新の偽り(その1) ~蘇我氏悪玉説への疑問~

大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇二年春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったという。(ウィキペディアより)
「大化の改新」といえば、むしごめ喰って。。。で年号(645年)を覚えた人も多いと思いますが、蘇我氏が暗殺された理由は、氏族の力を弱めて天皇中心の政治に改革する為ではなく、単なる皇位継承を巡るクーデター だとする見方がある様です。
このことは、後の権力者により日本書紀の記述が捏造されていたことを意味します。
この大化の改新には、誰もがよく知っている人物「聖徳太子」も関係しています。
写真は、21世紀中国総研より拝借しました。
Prince_Shotoku.jpg
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この大化の改新と聖徳太子に何の関係があるのだろうかと、疑問を持つ人もいるでしょうが、書紀によれば、蘇我馬子は崇峻帝を弑逆し、推古女帝を立てて、聖徳太子を「摂政」に就けており、天皇の系図を見れば、蘇我蝦夷と聖徳太子は義理の兄弟であり、遡れば蘇我稲目のひ孫でもあるのです。
大化の改新以前の聖徳太子の政治は、思想・精神的には仏教を背景に、いっそうの国内統合と政権強化をはかろうとするものであり、太子が摂政になった翌年、仏教興隆の詔が発せられています。そして四天王寺に続き、法隆寺も建てられた(607年頃?)はずなのですが、その建立の記録は書紀にはありません
以下、mansonge氏の「日本人および日本の誕生」より引用です。

▼大化改新で封印された謎
 大化改新に至る謎はこの辺りにころがっているような気がする。ここであらかじめ問題を提起しておくと、645年の「大化改新」は、律令制確立の序章としての諸制度改革とは別物である。645年の事件は「乙巳の変」と呼ばれるクーデタにすぎない。一臣下・蘇我氏本宗家の滅亡事件にすぎない。それが何故かくも画期的な一大事件とされ、律令制に向かう制度改革の始まりと位置づけられなければならないのか。そしてそういうふうに記したのは日本書紀である。
 大化クーデタ、すなわち蘇我氏本宗家が滅亡することで一挙に清算された、あるいは真相がヤブの中に隠されてしまった主な謎を列挙しよう。
 1.蘇我氏とは何者だったのか。
 2.聖徳太子は実在したのか。なぜ即位しなかったのか。
 3.法隆寺の建立や再建はなぜ隠されたのか。
 4.遣隋使の記録がなぜ不明瞭なのか。
 5.帝記や国記はあったのか(大王と豪族たちの出自)。わざわざ「蝦夷が焼いた」と記した
 意味は何か。
 書紀によれば、大化改新の主役は、中大兄皇子(後ちの天智帝)中臣鎌足(後ちの藤原鎌足)である。クーデタ後に即位した孝徳帝ではない。これもおかしな話だ。彼らはなぜ蘇我蝦夷を殺さなければならなかったのか。そしてそれが大功となるのなら、勝利者たち全員にとって蘇我氏がまともな手段ではとても対抗できない「正統・正当」の存在だったことをかえって反証していないか。
 だいたい、蘇我馬子・蝦夷・入鹿への悪態と、同族である聖徳太子への称賛とのギャップの大きさは異常と言うしかない。馬子たちの名は、真実ではないだろう。悪人としての命名によるものだ。馬子の崇峻弑逆、葛城県所望、入鹿の山背大兄皇子殺し、蝦夷らの「やつらの舞」(大王の舞)挙行などには、すり替えや脚色が混入していると見てよい。
 法隆寺は馬子と太子の存在に深く関わりすぎたものだろう。その建立を記すことは真実を語ることになるのだ。ただし、怨霊鎮魂というようなものではなく、むしろ馬子を称賛すべきことになってしまう大記念碑的な意味を持った建立だったという方向で解すべきだと筆者は思う。

聖徳太子は、蘇我氏そのものであり、その蘇我氏としての偉業を隠す為に架空の人物として登場したと考えれば、聖徳太子が即位しなかったこととも繋がってきます。
日本書紀は、蘇我氏に悪玉役をなすりつけたが、その隠しきれない功績が、聖徳太子の偉業として残ったのではないだろうか。そもそも、政治改革は聖徳太子=蘇我氏の時代から進められており、決して天智帝と藤原鎌足とが進めたのではないともいえるだろう。
とはいえ、まだまだ疑問だらけなんで、今回の「悪者扱いされた蘇我氏は、冤罪をきせられた不運の人達だった説」に続き、次回は、遠山美都男氏の「乙巳の変は皇位継承にまつわる出来レースだった説」を元に、日本書紀捏造の実態に迫ります。ご期待を

投稿者 maeyan : 2008年11月08日 List  

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コメント

よくまとまっています。
最初に法を作ったのが蘇我氏というところはポイントかと思います。蘇我氏がどのような意図で律令制を目指したのか?
争いを平定する為なのか己の権力の増強の為なのか・・・
なぜ法は必要か・・・その前夜の大和の状況をもっと見ていくとわかるように思います。
また、17条憲法に触れられていませんが、あれは書紀の捏造で本当はなかったんですよね。フォローお願いします。

投稿者 匠たくみ : 2008年11月26日 12:48

>権力者に都合よく定められた法などは、弱者は搾取されるだけで何のメリットも無く、権力者の体制を磐石のものにする為に用いられてきました。<
のように、争いを起こさせない一方で、実は効率よく収奪する為の仕組みとしての意味が強いようですね。
中国の均田制とか、班田収授法などもそれをまねたものですね。

投稿者 サハル : 2008年11月27日 18:41

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