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2009年02月03日

騎馬民族(扶余族)は金官伽耶を経由して畿内へ入った

戦後あれほど注目された騎馬民族征服説ですが何故か日本の学会ではあれはなかったことにしよう的な雰囲気が強いようですね。「人はこなかった文化だけ来た」ということにどうしてもしたいようです。しかし、騎馬民族扶余族が朝鮮半島を南下したのは間違いない事実のようですし、当時の半島南端と列島は同じ倭人の住処として人と物の交流が頻繁であったことを考えると、半島南端を支配した騎馬民族が、日本へ来なかったと考える方が不自然というものです。「人はこなかった文化だけ来た」論は「朝鮮半島と日本列島は別々の国」という国家形成後につくられた領土観念=先入観に立脚しており、まずはこのイデオロギーを排除して考えないといけません。(ただしネット界では、なんでもかんでも韓国起源にしてしまう向きもあって、そこは注意しないといけません。北方要素、南方要素の峻別が重要です。)
では「騎馬民族扶余族の半島南下」の背景や実体はどのようなものだったのでしょうか。またその証拠は?
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朝鮮半島南端 伽耶地方の地図です。

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るいネットにも既に投稿されていますが・・・今回は江上波夫教授が設立された「東アジアの古代文化を考える会」の2002年のシンポジウム記録「倭人のクニから日本へ」(学生社2004年発行)より申敬澈釜山大学校教授(シンギョンチョル・徹のぎょうにんべんをさんずいにかえた字)の伽耶考古学の講演から、紹介します。
伽耶における北方騎馬民族南下の跡を示す遺跡は伽耶連合国のひとつ金官伽耶があった大成洞古墳群です。
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金官博物館の金官伽耶の土器です。
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金官博物館のシンボル、「騎馬人物形土器」を模したモニュメントです。
なお、写真はこちらのHPよりいただきました。伽耶の歴史が展示された金海博物館の旅行記・・参考になります。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.2.html
大成洞古墳群は1世紀から墳墓が造営されていますが、3世紀末に、この地に一大変革があったことがみてとれるのだそうです。それは
1)中国東北地方の北方文化の大挙流入
  殉葬(王の死に際して近親者や従者がそれを追って死ぬこと)
  厚葬(多量の土器を副葬)の習俗
  陶質土器(両耳付円底短頸壺)鉄製甲冑、
  騎馬用馬具、オルドス型銅復
  ※殉葬は騎馬的風習であり、オルドス型銅復の起源は中国吉林省北部
  (北朝鮮と国境を接する省)か黒龍江省南部(吉林省の北、ロシア国境)
  に求められる。
2)この北方文化の流入によって、それまで同一の形式を持っていた木槨墓の様式が分化する
洛東江下流域(金海・釜山地区)は北方要素の強い金海型木槨墓に
慶州地区は慶州型木槨墓に
3)また洛東江下流域では先行墳墓の破壊行為が確認される
これらの事実から、中国吉林省・黒龍江省に起源を持つ扶余族が南下してきたといえるのではないか、と申教授は考察している。
しかし、群雄割拠の半島情勢にあって、扶余族の支配は長く続かなかったようで、5世紀には大成洞古墳群の築造が中断されます。他の伽耶地域の支配階層集団の古墳群は伽耶が滅亡する6世紀中葉まで続くのに、騎馬的性格を帯びた大成洞古墳群だけが滅ぶのです。この頃、どんなことがあったのか。

1)この金官伽耶崩壊の背景には新羅と結んだ高句麗の南下(広開土王の南征)があった。
2)そして新羅様式土器が洛東江下流に広まった。
3)同時にそれまで金官伽耶の文化を代表する陶質土器と同じ様式の土器が、伽耶の内陸部大伽耶及び畿内を中心に日本列島各地に広まっていった。

4) この伽耶土器の日本に伝播したものが初期の須恵器である。そして甲冑や馬具も日本へもたらされた。また畿内に馬を飼う牧もつくられた。(四条畷市蔀屋北遺跡)
http://www.pref.osaka.jp/bunkazaihogo/sitomiyakitasetumei.pdf
つまり、金官伽耶が滅んで、その一部が日本へと移住してきたというのだ。つまり騎馬民族征服説である。
何故、日本しかも畿内に須恵器が広まったのか?実は、4世紀から金官伽耶と畿内は親戚関係にあったからだ、と申教授は言う。
しかし、当時、畿内には殉葬や木槨墓は伝来しておらず、同じシンポジウムの場で武末福岡大学教授は「騎馬民族王調説」はなりたたないと指摘している。しかし殉葬の代替物ともいえる埴輪はある。これは郷においては郷に従えで、扶余族が柔軟に対応した結果だともいえるのではないか。また木槨墓については3世紀に遡るとされるホノケ山古墳には木槨墓が見られるが、畿内では既に独自の展開を遂げており、古墳の形式まで復古させるわけにはいかなかったのではないだろうか。(むしろ古墳時代末期にこそ北方要素は強くなっていっており、天皇家が独占体制を整える中で、ようやく先行豪族の意向を気にすることなく自らの出自を表現するようになったのかもしれない。あるいはそのような妥協の産物だったからこそ、天皇家は古墳を廃止していったのではないか。)また金官伽耶以外の伽耶勢力も独自の日本ルートを持っており、日本を独占するというほどの力はなかったようだ。
以下、http://www.koreana.or.kr/view.asp?article_id=6485 より
>3世紀、中国の「三国志」の「魏志東夷伝」の弁辰條には、「国が鉄を生産するが、韓、A、倭がそろって鉄を求めてくる。市場の売買においても鉄を使っており、中国ではお金と同じである。中国の郡県である楽浪の帯方にも供給している」という記録がある。当時鉄は、生産力拡大に必要な農具や工具、戦争に必要な武器や武具の生産に欠かせない物資であった
.
>3世紀に、洛東江河口に位置した金海地域で鉄製品が多く出土した。これは鉄を媒介にした東アジア地域の貿易が、加耶諸国連盟体の中心勢力であった金官加耶を中心に行われていたことを示す。加耶は鉄を基盤に成長した国である。6世紀以前までは、製鉄技術を保有していなかった日本に鉄を供給し、製鉄技術を伝えていたのも加耶である。
.
>製鉄とともに加耶を代表する産業は製陶(土器を製作する技術)であった。6つの連盟からなる加耶は、其々の国が造形美の優れた土器を生産していたが、4世紀末まで1200度以上の高温焼成土器を生産できなかった日本にその製陶技術を伝え、須恵器という回青色の硬質土器を生産するようになった。土器は必需物資ではなかったが、鉄のような物資と一緒に移動するため、加耶土器を通じて文献資料では調べられない、加耶勢力の時代別変遷や政治的動向を把握できる。
.
>しかし、各地域の豪族は鉄をはじめとした朝鮮半島の品物を、王権を通さず独自輸入していた。つまり、当時の倭王権は先進文化の品物の導入ルートを独占したとは見られない。 .
>(伽耶の中でも)阿羅加耶様式の土器は、日本の長崎県の対馬島・鳥取県・島根県・愛媛県などで出土しており、四国地方の初期須恵器窯で製作されていた。 (他方)金官加耶様式の土器は洛東江の下流地域に限って分布している。この時期における阿羅加耶独自の対外関係網から考えると、金官加耶を中心に倭との交渉を独占していたとする金官加耶優位論は成立しない。 .
>しかし、同時期に金官加耶の陶工が中心になって、日本で初めて回青色の硬質土器を製作した大阪府の大場寺窯から土器を作るようになる。また同じ時期に金海地域の土器に表れる黄色の自然油や緩やか波模様、洗練した造形美は、全盛期の金官加耶の国力を反映している。
いずれにしろ、日本に渡ってきた金官伽耶の一群は一気に征服というような行為に及んだのではないだろう。(この点は江上氏も征服ではないといっている)あくまでも、農耕に必要な製鉄技術等様々な最新技術を携えて畿内に入ってきたのであろう。

投稿者 staff : 2009年02月03日 List  

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