「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い |
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2013年04月20日
伽耶を知れば古代日本が見える(3)~伽耶とはインド商人が介入した東アジア最古の武器商人国家~
前回の記事(リンク)は、当時強大な力を誇っていた韓に最後まで侵略される事なく、朝鮮半島南端に在り続けた『倭』と呼ばれた地域のお話でした。
その地は後に『伽耶』と呼ばれるようになるのですが、『伽耶』とは辺境の地ではなく、朝鮮半島の中でも先端の文化を持った、倭人の国家だったのでは?という仮説がたちました。
伽耶山 コチラよりお借りしました
伽耶は朝鮮半島の南端に位置し、その防衛力の高い地形が特徴です。北は伽耶山(1430m)、西は智異山(1500m)という切り立った山々、東は洛東江という大河、南は海に囲まれ、どこからも攻め入りにくいという地理的に恵まれた土地でした。
しかし、山や川に囲まれ攻めにくいというだけで、周辺の強国は手をこまねいているでしょうか?やはり他の理由があるはずです。
今回はこの検証を行いつつ、伽耶がこの地でどのように文化を築き、強国に抵抗していたのか?そして彼らはその中でどのような民族性を獲得していったか?を追求していきます。
進めていくうちに、私たちが想像もしなかった『伽耶』の驚くべき本質が明らかになってきました。
本シリーズ前半のクライマックスです。
お楽しみに
■優れた武器、防具を作り出す製鉄技術
伽耶の鉄具生産の特徴は、鉄を鍛え粘りを生み出す『鍛鉄』と呼ばれる生産方法にあります。
伽耶の『鍛鉄』の技術は、伽耶へ流れ込んだ江南地方の呉越の流民が持ち込んだもので、その技術を活かし、豊富な砂鉄の鉱脈を持つ伽耶の地で磨かれていきます。
鍛鉄は、鉄自体の粘り強さから武器や鎧に最適で、日本でも日本刀などに用いられています。
当時、中国でも秦や漢の時代に鉄具生産は行なわれていましたが、彼らは『鋳鉄』と呼ばれる生産方法を取っていました。
鋳鉄とは鉱石を溶かし鋳型に入れて固める方法です。この方法で作られる鉄は強度こそ高いものの、粘りが乏しく脆い為、武器には向かず、専ら農機具として使用されていました。
こうして『伽耶』は、優れた製鉄技術で作り出される武具によって、小国ながら他の地域とは一線を画す防衛力を誇る地域となっていったのです。
■伽耶に目をつけたインドの貿易商
小国ながら高い防衛力を誇っていた伽耶(金官伽耶)ですが、西暦48年に転機が訪れます。
当時、高い船舶技術を持ち、貿易で莫大な富を得ていたインドのアユタ国=アーンドラ王国の王族(であり大商人)が、金官伽耶の卓越した製鉄技術の噂を聞きつけ渡来します。
そして、当時まだ若かった金官伽耶の王(首露王)に取り入り、なんと自らの娘を王の后として進呈します。
以下は伽耶の王后の痕跡です。伽耶地方では現在も王后が祀られ神話として残っています。「プサンナビ」より
伽耶を建国した首露王の王妃「許黄玉(ホファンオッ)」は、インドアユタヤから西暦48年、王女16歳のとき、船に乗り、伽耶の国へ首露王王妃として嫁ぎ、189年になくなったと言われています。王妃が産んだ10人の王子の中で二人を王妃の苗字である許(ホ)氏と名乗ったという神話が残されていることから、現在でも、首露王の金海金氏と首露王妃の許氏の結婚は禁じられているそうです。
イメージ図 コチラと、コチラよりお借りしました
■東アジア初の武器商人国家の誕生、そして滅亡
元々商人一族の娘であった金官伽耶の王后は、卓越した交渉術を持っていたと言われています。そして、その交渉術をもって、他の朝鮮半島の国々や中国などへ、伽耶の鉄具を売り始めます。
伽耶の鉄器製造技術は非常に発達し、大量生産された鉄の鉾、鉄釜、鉄鋋(鉄板)などが帯方郡、中国、新羅、百済、高句麗、さらに金海貿易港から倭国をはじめ、インドなど多方面の国に輸出された。
伽耶の鉄器製造技術は武器の大量生産によって軍事力を高め、農器具の量産によって農業生産を高め、さらに人口の爆発的な増加をもたらした。「日本の古代史を正す」より
また、「三国志」にも楽浪郡、帯方郡などに輸出されていた、という記述があります。
当時の伽耶は、強大化する周辺国家の圧力に対抗する手段として、彼らに必要な武器を提供する国として地位を確立し、他国からの侵略を商業という形で凌ごうとした思惑があったのだと考えられます。また、当時強大な経済力を持つ巨大帝国インドとの同盟は心強かった事でしょう。
武器の生産は、まず最初に伽耶自体の戦力を高めます。4世紀までは、半島の南端の小国ながら、新羅にも勝る戦力を擁していました。
しかし、インド商人は伽耶の領地を拡大する事はしませんでした。あくまで商売の拠点として伽耶を利用したに過ぎないのです。4世紀を過ぎると、伽耶から周辺諸国に売られた大量の武器や甲冑は朝鮮半島全域に広がります。日本でも伽耶と同じ鉄製甲冑、馬兜などが出土しており、大和朝廷の古墳に鉄製馬具が大量に出土する時期と重なります。
こうして金官伽耶は、後に自ら作った武器によって攻められ、滅亡していくのです。後に大伽耶が引き継ぎますが、それもわずか100年で幕を閉じます。
表舞台に出ず、国に寄生して吸い尽くす。商人の特質を現しており、伽耶はインド商人に利用され、最後は滅亡したとも言えます。
■商人達が持ち込んだ「仏教」
アーンドラ王国は仏教大国であり、后を送り込むと同時に仏教も伝来させました。
『「伽耶」を知れば日本の古代史がわかる』に以下のような記述があります。
>インドのアユタ国から許王后が仏塔の婆婆石塔を携えてきて、虎渓寺に初めて仏塔を建てたと記されている。韓国では産出しない婆婆石でできた仏塔は、今、一部が磨耗した状態であるが、まだ許王后陵の前に厳然と建っている。婆婆石で造成されたこの婆婆塔は間違いなく仏塔であり、塔を携えてきたのが事実とすれば、その時仏教が伝わったものと見なければならない。
首露王妃陵の婆婆石塔 コチラよりお借りしました
韓国に存在しない婆婆石でできた仏塔が祀られていることが、伽耶に仏教が伝来したことを示す何よりの証です。
中国に仏教が伝来したのが紀元前2年と言われていますから、かなり早い時期に伽耶に仏教が伝わった事になります。当然、朝鮮半島内では最も早く、しかも中国を経ずに直接入り込んできました。
なぜインドが伽耶に仏教を持ち込んだかについては、おそらく商人の目的であった、朝鮮半島に「市場を作る」ことと、仏教がなんらか関係があったと考えられます。
後の記事でこのあたりは解明していきたいと思います。
そしてもう一つ、伽耶に仏教が伝来したことを示すものがあります。
「伽耶」という地域名は、隣国新羅では「伽耶」=「釈迦」と同義だったのです。
インドにおいてKapilaと呼ばれる釈迦国は、ご周知の通りコーサラ国によって滅んだ。釈迦国の遺臣は、中国を経て朝鮮に辿り着いた。南端、日本では任那と呼び、百済では加羅と呼び、新羅では伽耶と呼んだ同一の場所へと。伽耶とは「太陽族」の意である。すなわち釈迦族を新羅で表したる言葉だ。「本物本当の歴史宰杜大日本国ユー37312731千田仁寛のブログ」より
また、インド北東部、ビハール州ガヤー市の南方にある仏教の聖地。釈迦が悟りを開いたといわれる地は『ブッタガヤ(仏陀伽耶)』と呼ばれています。これは偶然とは思えません。
* * * * * * * * *
今回の追及でわかったことは・・・
伽耶は、呉越の流民が持ち込んだ優れた製鉄技術によって、新羅などの北の脅威から身を守っていました。
発明した鉄具に甲冑などの防衛具が多く、他地域の領土を侵略していない事から伽耶諸国は当初、防衛の為にその技術が使われたのでしょう。
ところが、その高い製鉄技術に目をつけたインド王族(商人)と手を結ぶ事で伽耶は武器商人国家となっていきますが、
その大量の武器貿易が仇となり、後に力をつけた他国に滅ぼされてしまうことになります。
伽耶がインドとつながって、東アジア最古の武器商人国家となっていたことは、驚きの発見でした
次回は、朝鮮半島内の力学を知る上で重要な高句麗について扱う予定です。
お楽しみに
投稿者 pingu : 2013年04月20日 TweetList
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