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2013年04月27日

伽耶を知れば古代日本が見える 4~北方の本源集団 高句麗と、その末裔による民衆のための優れた統治(中国清王朝、江戸幕府)

伽耶を追求し、日本の古代史を明らかにするシリーズ。今回は、伽耶を含む南の3国に脅威であり続けた北方の大国「高句麗」を扱います。本シリーズ焦点の伽耶から外れますが、高句麗の民族性の分析はシリーズ後半に繋がっていきます。よろしくお願いします。
高句麗は、5世紀の広開土王の時代に領土を拡大し、その時代の強さが知られています。中国さえも恐れていた軍事大国と言われ、非常に好戦的な北方の大国と描かれることが多いように思いますが、実体はどうなのでしょう。非常に強いのが事実だとしたら、その力の基盤はどこにあったのでしょう。
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厳しい自然外圧が形成した、強い闘争性、それを支える協同と和合
「若者に伝えたい韓国の歴史」より彼らの民族性を端的に書かれているところがあるので引用します。

高句麗人は、はじめ山奥の谷間の狭い平地で生活し、物が豊でなかったので常に勤倹節約する精神が身についた。その上、中国に頻繁に侵入されたので国防に力をつくした。そのため高句麗は、早くから強い社会結束力を見せ、そのうえ、戦闘力に優れていたので、中国人から恐れられる対象になった。、、、、
古墳壁画には高句麗人の進取的で躍動的な気性がよくあらわれている。また、高句麗人は歌舞を楽しんだが、これは軍事中心の社会が持ちやすい硬直性を解きほぐす役割をはたした。そして大勢で一緒に踊る群舞を好み、組織の協同と和合を重視した。

非常に強い闘争性、軍事力、そしてそれを支える組織の協同と和合。一言で言えばこれが高句麗の特質ではないかと思います。(後の朝鮮国家は、中国の属国へと没落して行きますが、高句麗は全く違っていたと言えそうです。)
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高句麗武人の古墳壁画

遊牧系とは異なる、より本源的(原始的)な「狩猟系民族」
高句麗は全盛期に満州から朝鮮半島北部にかけてを領土としていましたが、もともとは、その遥か北方に位置する大シンアンリン山脈出身、非常に厳しい環境外圧の所に居住していました。それで、勤勉で集団性が高く、後に周辺民族と戦闘に入るようになったときも、社会的結束力→闘争性をもって張り合ったと思われます。
ここで、認識しておきたいのは、戦闘に優れた北方の大国と言うと「遊牧民族」をイメージしますが(実際中国の歴史に登場する『異民族』の多くが遊牧民)、高句麗は「狩猟系民族」であり、広域を小集団で移動する遊牧民と違い、基本的にその土地、その自然の中で生きていく民です。
遊牧民は小集団で移動するためその独立性が高く、それぞれが「自集団第一」に傾斜しやすく、また、集団間の交易に携わるようになり、いわば「取引」→「だまし」に手を染めるやすくなります。そのような遊牧民と異なり、狩猟系民族は原始的≒本源的で、秩序を重視する傾向ははるかに高いものがあります。実際、歴史上のモンゴル系、トルコ系の国家が急拡大と分裂を繰り返すのに対して、狩猟系出身の清王朝などは長い安定時代を築きました。
彼らの置かれた環境外圧に加え、私権にまみれていない、より本源的な集団統合を維持していたことも集団の結束力と統合力を非常に高いものにし、人口で圧倒する中国と張り合っていた力の源泉のように思います。
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国家形成は、中国への抵抗過程から行われた。
改めて建国から半島統一までの高句麗が作り出した力学を見てみます、この建国にいたる過程に高句麗の本質が現れているのではないかと思われます。高句麗に関しては建国の動機が侵略ではなく氏族の防衛にあったのです。
高句麗が建国される半世紀ほど前、紀元前107年に漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島に楽浪郡を初めとする4郡をおきます。そのひとつである玄菟郡(げんとぐん)は、現在の高句麗の元である一族の住地で、漢による住地の占領に危機を感じた高句麗族は結束し建国に至ったと言われています。
高句麗は建国後直ぐに領土を拡大し、さらに南にあった馬韓、辰韓についても高句麗が服属関係を作って関係構築をし、後に百済、新羅の建国に繋がっていきます。これらも半島の漢支配の危機を追い出す為の施策ではないかと思うのです。
高句麗は歴史書では好戦的で侵略戦争を繰返した悪者のように書かれる印象がありますが、実態は漢による朝鮮半島侵略に対して楔を打ちこみ、半島の独立を作り出した立役者でもあり防波堤でもあったのです。広開土王が半島内で新羅、百済に攻め込み半島統一を企てたのは、中国の外圧に抗じる為、曳いては半島の秩序維持を図るための戦略だったのです。
高句麗(狩猟系民族)の末裔による、民衆のための優れた統治(中国清王朝、江戸幕府)
さて、高句麗は668年に唐・新羅連合軍に挟み撃ちにされ、ついに滅亡するに至りますが、彼らの本源的な遺伝子(資質)が歴史から消えたかというとそんなことはありません。
1000年後の17世紀の中国清王朝(満州族)は高句麗族の末裔、あるいは非常に近い民族とされています。満州族の清王朝は、「異民族」の王朝と扱われ、またアヘン戦争の敗北もあり、肯定的に認識されないように思いますが、実は清王朝は中国の歴代王朝の中でも非常に長い安定時代を築きました。1600年から1800年まで、日本の江戸幕府と並行して安定時代にあったと言えます。
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清朝第4代皇帝 康熙帝
そして注目すべきは、その時代の多くの皇帝が、非常に勉強熱心で、また質素・倹約に努めたと言います。民族の血というか、その民族の統合者に求められているものが窺い知れます。度々減税を行うなど民衆への配慮が強い統治をしたようで、長い安定期を築いたのもうなずけます。

第4代康熙帝(こうきてい):内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明(みん)の時代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税を度々行った。

第5代雍正帝(ようせいてい):史上稀に見る勤勉な皇帝であった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。また、民衆の手本として自ら倹約に努めている。書き物をする時に重要な物でなければ紙を裏返して使い、政治の最高機関の建物もみすぼらしいバラックのような建物であった。

清王朝の皇帝は、中国の皇帝のイメージとは随分違い、質素だなと思いますがどうでしょう。清代には他にも多数の名君を輩出したようです。さて、同時期、日本では江戸の安定期にあったわけですが、鎌倉武士に始まる東国武士は高句麗の武人であると言う説が本ブログでも紹介されています。江戸も大衆のための統治が行われ人々の生活が大きく改善した時代でした。
中国においても日本においても、高句麗滅亡から1000年を経て、北方狩猟系民族の本源的な資質が、安定した民衆のための統治を実現し、新しい時代の入り口、日本においては共認時代の入り口に導いたと言えるかもしれません。
さて、次回は再び伽耶の追求に戻ります。お楽しみに~。

投稿者 fwz2 : 2013年04月27日 List  

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