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2009年08月13日

NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第4回放映~そして「日本」は生まれた

シリーズNHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第4回です。
そして「日本」は生まれた~白村江の終戦から律令国家へ
7月26日に放映された内容の要約を記事にまとめました。
前2回の記事と併せてお楽しみください。
NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映
NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第3回放映
今回の放映の時代は7世紀の乙巳の変(645)から大宝律令(701)までです。
時間のない方の為にまずは放映内容を概略してみます。
 7世紀初頭までに倭国は蘇我入鹿が支配していた。7世紀半ばに入鹿暗殺という二本史上の大事件が起きるが、この乙巳の変(大化の改新)とは単なる権力闘争ではなかった。この事件は朝鮮半島との外交戦略を巡る対立から発生した。
唐という大国が登場し、朝鮮半島が戦乱にまみれると、その動乱の影響は同時に倭国にも伝染し、対唐戦略の元、新羅、百済、倭国の間で様々な政治緊張関係が発生した。

わずか50年の間に親百済→親新羅→親百済を経て律令国家として自立した倭国は8世紀初頭には唐や新羅と対等に外交する国家へと体制を固めていった。
その為に必要だったのが律令制度であり、強大な都(藤原京)の建設であり、天皇という称号であった。8世紀初頭に唐に行った遣唐使の際に初めて対外的に日本という国号を用いた。

白村江の戦いで半島に上陸すらできずに唐の水軍の前で赤子のように敗北した倭国がわずか30年で新羅に追いつき律令国としての体制を整える事ができたのは百済滅亡が大いに関係していた。
今回の放映はその歴史的な綾を史実や史跡を元に解説していきました。
NHK製作なのでどうしても政治的な配慮が気になりますが、また史実なのかNHKの推測なのか曖昧な表現もあり、???がついた部分もありますができるだけ正確に伝えたいと思います。
それでは中身について詳報させていただきます。時間のある方は以下もご覧になってください。
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今回の番組を以下の4つに分けてまとめてみました。
①乙巳の変はなぜ起きたのか?
②遣唐使と孝徳天皇の親新羅政策
③再び親百済政策へ反旗を翻した中大兄皇子
④白村江の敗戦から律令国家建設へ

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①乙巳の変はなぜ起きたのか
6世紀初頭新興豪族であった蘇我氏は渡来百済人の登用と仏教導入で力を付け6世紀末には飛鳥寺建立、天皇を超えた実権を持った。
7世紀には唐、新羅からの防衛を意識して飛鳥に武器庫である甘樫の丘を建設し、権力を磐石にしていた。
※蘇我氏は当時百済と強い関係があったことは、甘樫の丘の配置が百済のプヨに近似している事からも伺えるとしている。
7世紀初頭の東アジアの情勢を俯瞰してみる。
618年、唐が建国すると東アジアの情勢は一気に緊張していく。
唐は高句麗、百済を攻め込み、百済、高句麗は新羅を攻める。
新羅は孤立し、唐へ協力関係を求める。新羅は同時に倭国にも同盟関係を求めてくる。

  
      ←(戦乱)→ 高句麗
     ↑          ↑
    (戦乱)       (戦乱)
     ↓          ↓
    百済←(戦乱)→ 新羅・・・・・・(唐へ近づく)
      ↑         ↑
    (友好)倭国・・・・(国交開始)
海を隔てている倭国は朝鮮3国ほどの圧力は受けていなかったが、巨大国家唐の出現を受けて朝鮮半島3国との関係を百済中心から等距離外交に切り替える事を模索していた。
新羅は百済、高句麗と対立し、唐へ援助を求める。新羅はこの時、唐の年号や律令制を取り入れ、衣装などの風俗も唐風に改めていく。また倭国との関係強化の政策がとられ、遣唐使は新羅の援助を受けて実現したと言われている。
遣隋使の時代には唐への往路は百済を経由したが復路は新羅を経由して帰国しており7世紀初頭から徐々に新羅との関係は作られていった。
特に遣隋使を手配していた軽皇子(孝徳天皇)が親新羅へと傾斜していった。
蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変はどのような場であったか?
書記によると三韓進調の場であり韓政について豪族―天皇の間で話される場であった。
この場で入鹿が殺されたということは、新羅への外交戦略を巡って争いになったと思われる。百済一辺倒であった入鹿は殺害され、蘇我氏は滅亡する。
首謀者は親新羅を押していた軽皇子であった。
②遣唐使と孝徳天皇の親新羅政策
軽皇子は乙巳の変の直後に孝徳天皇として即位するとそれまでの朝廷内の蘇我色を排除するために難波の宮に遷都する。
難波の宮で長安をモデルにした中国風の王朝を建設した。
中国への留学僧が重用され徹底した親新羅、親唐政策がとられる。(蘇我時代には留学僧は低い位にあった)
③再び親百済政策へ反旗を翻した中大兄皇子
中大兄皇子は乙巳の変で軽皇子の命で蘇我殺害を実行した。
しかし、その後の孝徳天皇の徹底した親新羅戦略に反旗を翻す。
649年新羅の使者が唐風の衣装を纏って朝廷に来ると怒って追い返す事件が起きたと書紀に書かれてある。返した重臣は中大兄皇子である。
番組では反旗の理由としては完全に唐化した新羅を見て、このままでは唐の属国になると危機感を感じたとしている。
653年に難波宮から家臣を引き連れて飛鳥へ戻った中大兄皇子は孝徳天皇を失脚に追い込む。家臣を失った孝徳天皇は失意の元病死する。
直後に中大兄皇子の母親である斎明天皇が即位。
飛鳥に戻り、今度は精力的に飛鳥の開発を行う。東国へも派遣し、全国への領土展開を始める事になる。
659年の遣唐使の派遣には蝦夷を入れ、唐に対して辺境も従える大国になったとして対等外交を、求めた。
④白村江の敗戦から律令国家建設へ
660年唐が百済を攻撃、同年7月には百済滅亡。
そこから百済の抵抗が始まる。
百済残党が集まり、山城を旧百済国内に建て、百済復興運動が始まる。
高句麗へ兵を集中していた唐軍は百済領内での対応が手薄になり、復興運動は活発化する。さらに復興軍は倭国に援軍を求めた。唐の圧力を感じ、新羅との関係が希釈になっていた朝廷は百済復興軍を唐からの防波堤に使えると考え援助に応じた。
660年10月には百済後攻を決定し、斉明天皇自ら朝倉宮へ進行し、陣頭指揮を執る。しかし2ヵ月後に病死、その後は中大兄皇子が陣頭に立つ。
663年8月に白村江に進出。復興軍が周留城を拠点として抗戦しており、その援助に向かったが唐の水軍170艘に敢え無く壊滅させられ、倭軍は陸に上がることなく成す術なく、圧倒的な唐との戦力差を経験した。
百済後攻の戦略はこうして大敗北に終わり、百済復興運動も消滅した。
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同時に倭国は唐の侵略圧力を初めて直接受けることになる。
天智天皇即位はその逆境の中で始まる。
天智天皇がまず行ったのは律令制の本格導入と防衛の強化であった。
いずれも直ぐにでも攻め来る唐に対する防衛戦略であった。
しかし幸運な事に唐はその後、高句麗との戦い(660~668)に軍を費やし、さらにその後(670~)は統一新羅との境界戦争を継続する。倭国には使者が数年間駐在するが、倭国に軍を送りこむ余裕はなかった。
その間に天智天皇は国内整備を進める。
防衛については九州の玄関口として大宰府に防衛基地を据え、巨大な水城を作る。さらに瀬戸内海から畿内、北九州全域に山城を隙間なく築き、唐からの侵略に備えた。
防衛基地は百済の指導者の元作られた。山城は百済復興軍を模倣しており、城跡には百済人が使っていたとされる小さな仏像が発見されている。急速な防衛基地の築造に亡命百済人が多く関与していた。
670年、最初の律令制として庚午年籍を敷き、国民の戸籍を整備しいざという時の徴兵に備える。さらにその後、律令制度導入を本格的に進めていくことになる。
この時代、唐との関係を失っていた倭国はいかにして律令制を導入できたのか?
律令制度は専ら百済人から学んだ。一例として百済にあった「貸食」という制度を取り込んだ事が「貸稲」として日本の木簡に残っている。貸食とは稲の種を利息付で国が貸し出す制度で利息の始まりであった。
このように防衛基地の建設、律令制度の導入共に多くの亡命百済人が協力したのではないかと思われる。白村江敗戦からわずか30年足らずの間に防衛、内政共に律令国家としての最低限の体裁を整える事ができたのは百済滅亡と白村江の敗北経験という条件が大きく寄与している。
671年天武天皇が即位するとさらに中央集権化は進む。
飛鳥池遺跡では300基にのぼる炉の遺跡が発見されているが、この時代大規模な金属(鉄、金、銀、銅)の生産が国家事業として行われている。日本最初の貨幣である冨本銭がこの時代に作られ、初の天皇という称号も木簡から確認されている。
天皇は中国の皇帝に対応しており、この時代には中国との対等外交を意識していた。天武天皇は中国の長安を模倣した藤原京を三輪に築造し、古代国家日本が誕生した。
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以上、前回のNHKスペシャルでは701年大宝律令まで放映されました。
壬申の乱や天武天皇から持統天皇での混乱、藤原不比等という最強の豪族の扱いには一切触れられていませんでしたが、唐の出現と東アジア全域の混乱が日本を急速に作り上げる原動力になったという史観は確かだと思いました。
次回は8月30日 テーマは「日本海の道」~日本海を舞台に交流した渤海です。市場というキーワードが入ってくると思われます。また日本海という朝廷の裏側で活発な国際市場が発生していた事を伺わせます。
次回もレポートをしていきたいと思いますので、ご期待ください。

投稿者 tano : 2009年08月13日 List  

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