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2011年01月31日

日本人の起源12~出雲から大和への国譲りは何を意味するか

http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/hm-16.html日本人の起源シリーズ12弾です
前回の「日本人の起源11~日本ではなぜ権力が共存したのか?」http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/01/001183.htmlでは、日本古代の体制変化(江南人⇒新羅⇒百済)の仮説や’10年末なんで屋劇場での大陸との関係,Y染色体の認識を中心に、るいネットの追求投稿,他サイトを調べながら日本古代史の図解作成が試みられました。
今回は前回の図解を更に検証し、修正を加えました。
クリック御願いします
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●前4~5世紀から8世紀の韓半島(韓国の中学の教科書では「朝鮮半島」とは言わず「韓半島」と記述しています)と日本の関係を時間軸で整理した年表で分かり易いものがありましたので紹介します。「ブログ:縄文と古代文明を探求しようリンク 
・これに拠れば、弥生時代後期4世紀を第1波とし、7世紀後半の飛鳥時代まで日本へは以後合計5回に渡って韓半島或いは大陸からの大規模な民族移動があったと考えられます。
☆今から3000年前ごろ、中国大陸での寒冷化により北からの勢力に押されて、南下した長江文明を担った南方人やミャオ族の一派が流れ流れて日本列島に漂着したものと思われます。(最近は弥生時代は前10世紀まで遡るといわれています)
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第1波は前4世紀ごろ江南からの難民が渡来。
戦国時代に負け組となった呉や越の一派が流れ流れ、海を渡って或いは半島経由で日本にたどり着いた
第2波は2世紀中ごろ韓半島で高句麗、扶余の圧力を受けた半島南の三韓(馬韓、弁韓、辰韓)地方から押し出された一派が流れ着いた
第3波は4世紀初め百済建国(346年)、新羅建国(358年)の前に敗組が亡命してきた
第4波は6世紀中ごろ、新羅に征服された伽耶・任那からの王族や百済人、任那人が大量渡来した
・第5波は7世紀中ごろ、唐・新羅連合軍に敗けた百済から大量に王族も含めた渡来人が亡命した
☆約1~2万年前にバイカル湖、モンゴル、南方から日本列島に流れ着いた縄文人の祖先を含め、日本には大陸と半島から何度も何度も多種多様な人種が流れてきたというのは、Y遺伝子の解析からも間違いないところです。(「日本人の起源」(解明 これまでの成果と残課題)
・前述引用の縄文ブログの中で「日本人は大陸・半島からの様々な流入民が混血しながらできあがっていった雑種国家である(近代に固有な「日本は単一民族国家」は事実ではない)」と述べられていることは、最近の遺伝子研究の結果等でもほぼ間違いのないところです。
ちなみに韓国の中学校の教科書でも「わが国は古来より単一民族」としてという表現がありましたが、どこの国家支配層も自民族の出自については、純潔幻想に染まり事実を見ようとしない傾向がありますね。
★前4世紀以降、韓半島からの難民・亡命人という史実と、日本の建国神話を大胆に重ねてみたのが次ぎの年表です。%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E5%8F%B2%E5%9B%B3%E8%A7%A3.jpg
この仮説年表では、出雲地方には縄文時代既に大規模な集落が形成されていたと想定しています。
・三内円山に代表される東北地方の縄文文化が、寒冷化に伴い徐所に西へ移動していき、日本海を南下して出雲地方へも根付いたことは容易に想像できます。例えばリンクこの縄文人が「出雲神族」と呼ばれ、半島からの移住民=天孫降臨族に対し、土着の民=国津神(くにつかみ)族と呼ばれた。
・出雲神族に関しては、出雲神族の末裔という富當雄(とみまさお)氏リンクのように記紀の記述とは大きく異なる説を展開する見方もある。
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・この年表は、記紀やその他の古代の歴史書の編者が、神話世界の登場人物たちを時の支配者に都合よく描いたことは了解しつつも、敢えて現実の歴史に置いてみたらどうなるかを見たものです。
その仮設は、
スサノオは韓半島(新羅)からの第1派渡来人である。リンク  
八坂神社社伝リンク
スサノオは新羅の神?リンク
オオクニヌシは記紀では、スサノオの何代か後の子孫ということになっているが、一方でそれは後世の支配層の捏造であるという説を唱える人も居る。
「オオクニヌシで代表される先住民(縄文人、国津神、 出雲神族)が出雲に王朝を建てていた」
リンク
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・出雲大社の祭り神もオオクニヌシ→スサノオ→オオクニヌシと途中で2転しているリンク
・この表では、オオクニヌシは1人だけの固有名詞ではなく、何代にも渡って受け継がれた一族の尊称という説に立っています。リンク「暴かれた古代史」から読み解くもの(5)オオクニヌシの変身」
・このころは出雲族の物部氏の全盛のころです。
・アマテラス(天照)は名前からして天孫降臨(渡来人)したものであり、最終的にヤマト政権を簒奪した中臣⇒藤原一族の祖神として最も尊ばれているが、実は後世の全くのでっち上げという説もある
リンク・
アマテラスは後世藤原氏の捏造?
「女王卑弥呼と邪馬台国の時代」リンクに拠れば「ところが、それ(持統)以降の天皇は伊勢社(現伊勢神宮)に参拝した記録はないと云います」とあるように、(アマテラスを祖神としたのは)当時8C初めの権力者である藤原不比等の差し金によるものという可能性が高い。
・近代になって、それまで歴代の天皇はだれも参拝しなかった伊勢神宮へ明治天皇は突然4回も参拝します。リンク「日本神話」
・また伊勢神宮の祖神を巡って伊勢派(アマテラス派)と出雲派(オオクニヌシ派)の争いになったとき、明治天皇の裁定で伊勢派の勝利となったという事実とあわせると、伊勢の祖神がアマテラスであるということがいかに政治的な意味合を持つかということが分かります。「伊勢派と出雲派の対立リンク
・又後述の古代王朝研究家関裕二氏は、「日本書記」の中の祟神天皇が大物主の祟りを収めるため、物部氏に天平甍を作らせ祭ったという故事をひもとき、ヤマト政権誕生に大きな影響を持ったと思われる物部氏と出雲神との間に、大和の地でいくつかの共通点が見出せるという。
しかもそれを「日本書記」は必死でもみ消そうとさえしている。
・つまり「日本書記」のいうように、ヤマト政権誕生は決して九州から東征して大和を征服して出来たわけではなく、出雲や北九州や大和の豪族が天皇家を共立(迎え入れた)したという説を説く。
・中でもヤマト統一政権の成立にいかに出雲が深く広範囲に関わっていたかが記されている
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☆この仮設に基づく年表がマトを得ているかどうかは、まさに神話世界での出来事なので何とも判然とする話しではありません。
・神話の上では、出雲も大和の地方豪族も最終的には天皇家に「国譲り」(多少の小競り合いはあるが、最終的には祖先神の神的威光の高い方に譲る)をするわけですが、
前述の関裕一氏リンクの膨大な著作の一つである「古代大和朝廷の謎」によれば、縄文体質を濃厚に残す出雲族と近畿の地方豪族が最終的には北九州から東征した「神武天皇家」に国譲りをするに到る精神的な背景をこう述べています。

・縄文人にとって、山や川、路傍の石、木や草、生きとし生けるもの、すべてが神であった。・・神は人間に恵みをもたらすと同時に、災害や天地異変をもたらす恐ろしい存在であった。・・神は絶対的な存在ではなく、時に鬼となり人を苦しめ、またそこかしこに出没する。・・(だから)縄文人にとって、海の外から来る新たな神は、八百万の神のうちの一柱に過ぎず、これを拒まず取り込んでしまうことが出来た。
(例えば)ダーウィンの唱えた進化論を、明治時代、日本人が素直に受け止めたことは、西欧人にとって、少なからず驚きであったらしい。人間が神の子と信じていた当時の厳格なクリスチャンにとって、人類が猿から生まれたとする学説に従うことは出来ず、侃侃諤諤の議論が交わされた経緯があったからである。このあたりにどうやら日本人の不可解さは隠されているようだ。縄文時代から1万年もつづいた民族の伝統であったとしか思えないのである。

☆2千数百年前に、侵略経験を長年にわたって繰り返した渡来人によって、溶解されたと思われる縄文人の「本源体質」が今に残るのは何故か、ということがこの「日本人の起源」シリーズのテーマでもありましたが、やはり、弓矢の発明により人類が洞窟を出て、1万年以上他民族からの略奪を受けず、かつ同類同士の殺し合いも経験せず、豊かな共同社会を築いた、世界でも稀有な縄文社会の偉効が、遙かな時空を繋いで今に残るということでしょうか。
参考サイト
・「古代史年表」INDEX~半島勢力及び大陸情勢編 リンク
・古代出雲『縄文と弥生の融合』の謎(その1~3)  リンク
・日本古代の私権統合1~古墳時代は「占い」による談合が豪族間の私権闘争を止揚していた  リンク  
・蘇我氏は、出雲神族か?  リンク
・出雲 荒神谷遺跡(銅剣385本ほか大量の青銅器が発掘された)  リンク
・卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった  リンク

投稿者 ryujin : 2011年01月31日 List  

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