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2009年07月17日

NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第3回放映

NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第3回放映~仏教伝来
こんばんは、tanoです。
恒例のNHKスペシャルレポートに今回もチャレンジさせていただきます。
今回は6月28日に放映された第3回「仏教伝来」です。
番組構成は
①仏教はどのように日本に伝わったか?
②聖徳太子が広げた仏教のその後とは・・・。
の2つに分かれます。
まずは今回は①の部分をお伝えしていきたいと思います。
仏教はどこから伝わったでしょうか?
インド⇒中国⇒朝鮮半島⇒倭国des
しかし経路は中国大陸を経て南朝と北朝側に分かれており、日本に伝わったのは南朝入った百済仏教です。百済に4世紀中頃に伝わりその後6世紀には倭国に聖明王から正式に伝わったとされています。
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さて、仏教伝来の暦は日本ではこれまで552年と538年と2種類ありました。(知ってましたか~)
538年は元興寺縁起に書かれており、
552年は日本書紀に書かれている暦です。
~日本書紀には552年に釈迦本像物と経典が聖明王から伝わったとされています。
これについて現在では、523年に武寧王が亡くなり聖明王が即位した年度(即位年)が書紀と同じであり、552年が正しいとされています。が・・・・
※現在でも決着はついておらず学校教科書では両方を教えているそうです。(中学生の娘さんを持つAさんより情報を入手しました)
さて、百済は何の為に倭国に仏教を伝えたのでしょうか!
それにはこの時代の百済の半島内での情勢が絡んできます。

百済は武寧王の時代に高句麗に深く攻め込まれ、国土の北側の領地を大きく占領されます。同時に新羅からも戦争圧力が加えられます。
プヨに遷都した聖明王は高句麗から領土を奪還する為にまずは国内の仏教を強化します。プヨを仏教の都として寺を建設し国内の意識を高めるために仏教を護国の理念とします。
さらに聖明王は高句麗、新羅への対抗として倭国へ救いを求めます。
既に4世紀から儒教を中心に五経博士を送り倭国と宗教的な繋がりがあった百済はこの機会に仏教を伝える事で倭国と軍事的にも手を結ぼうとしたのです。
百済にとっては最後の切り札が仏教でした。

それでは一方受け入れた側の倭国の方はどうでしょうか?

倭国の6世紀の状況は天皇が中心になって統制する前の段階で、豪族達が主導権を巡って激しい争いをしていました。百済から経典と仏像が届いたのはその渦中にありました。争いの中心は蘇我氏と物部氏で蘇我氏が仏教を導入し、物部は排除しようとしました。争いは2代に渡って続き、最後は蘇我氏に軍敗があがります。(神仏論争)
蘇我氏は歴史上は新興豪族で6世紀になって登場します。百済からの渡来人ではないかとされる蘇我氏は外国語に長けており、渡来人の扱いにも慣れていました。
蘇我氏が国内勢力を急速に伸ばせたのは当時どんどん流れてきた渡来人を組織化できたからで、仏教は彼らを組織化するのに必要でした。
蘇我氏が渡来人と深く繋がっている証拠に東漢氏の首長の墓がある真弓かんす塚古墳があります。東漢氏は蘇我氏に仕え6世紀に大陸の技術を多く日本に伝えました。
有名な蘇我馬子と物部守屋との戦いは587年守屋が殺され、その後、蘇我氏が国内を治めていきます。宗教戦争と言われる物部―蘇我の争いも結局のところ権力闘争であったとされています。

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さて、蘇我氏が仏教伝来を推進し最初に建てた仏教建築が飛鳥寺と言われています。
飛鳥寺は588年、大仏を奉納する寺院として建立されました。
現在は本堂しか残っていませんが、周辺の発掘調査により本堂の前に5重の塔があり、左右に本堂があった事がわかっています。一塔三金堂式とされるこの様式は最初は高句麗の清岩里廃寺の様式と同じとされ長く高句麗の様式が大和に流れたとされていましたが、2007年11月の韓国の王興寺の発掘で建物配置が王興寺と近似している事がわかりました。
08年4月16日朝日新聞記事より
寺院の伽藍配置比較
飛鳥寺は百済の職人が倭人を使って建設したとされています。
王興寺の発掘現場から舎利器と多くの装身具が発見されました。
20071025121902-1.jpg
舎利器に書かれていた文字は577年に王興寺が建てられたとされています。
日本書紀に拠ればその9ヵ月後に仏像を作る使者が百済から送られてきたと書かれています。王興寺を建てた職人が倭国に来て飛鳥寺に関わった事が推測されます。
またそれは飛鳥寺と王興寺の多くの物証で確認できます。
瓦の文様にハスの葉をモチーフとしたほぼ同じデザインが用いられています。また舎利器、装身具(玉、勾玉、かんざし)などはほとんど同様のものであることが確認され、ほぼ間違いなく百済から大和へ多くの技術者が渡来して飛鳥寺建設に関わった事がわかります。
また舎利器は塔の下に埋葬され、舎利信仰という独自の信仰は百済がはじめてでした。これは小さな仏像を入れた舎利を敬うと同時に国や国王を同様に敬うという仏教を通して大衆の統合を図ろうとした百済の政策でした。
飛鳥寺は当時どのような目的で使われたのでしょうか?
国内の仏教布教の本山であると同時に大陸からやってくるお坊さんを向かえる迎賓施設でした。当時の坊さんは天文学、数学、語学などの学問や芸術を伝える万能者でした。この場所で百済だけでなく高句麗、新羅からもお坊さんを招き入れ国際文化交流の場として使っていたのではないかと思われます。
NHKスペシャル 仏教伝来より要約してお伝えしました。
後半は聖徳太子の伝えた仏教をさらに当時の天皇が百済大寺を建立して国家として広げていったというストーリーですが、かなり疲れてきたので後半は省略させていただきます。 🙁
この番組については様々なブログで韓国に偏った報道姿勢を強く指摘されていますが、たぶんゲストの韓国人の学者の発言に拠るものだと思います。今回も淡々と事実を語る東洋大学の鈴木靖男教授に比べて、韓国のイ・キドン教授は必ず最後に韓国が優位である事を感じさせる発言をなさっていました。
少なくとも日本の今の歴史は百済からの文化伝来なくしては存在しないというようなニュアンスの発言されていたのには少々驚きました。番組では最後に、「かつて日本と朝鮮半島は同じように文化を営み、現在よりはるかに親密な関係を構築していました、」とまとめた事で救われましたが、これからの十数回の番組をどのように放映していくのか、難しい部分は多々あるようです。 🙁

次回は古代史のクライマックス「白村江の敗戦から律令国家へ」というテーマで放映されます。
7月26日 午後10時~教育番組で放映されます。お楽しみに。

投稿者 tano : 2009年07月17日 List  

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コメント

>日本はある種特殊なフィルターを通して、必要な文化や文明だけが濾過され
科学的に万人が納得できる証明はなされて
いないと思いますが、日本語族とポリネシア語族の二民族
の、音を左脳で言語化してゆく特殊?な特性があると
いいます。
中華民族、朝鮮族、モンゴル族等と決定的に違う部位が
あるとするならば、そうゆうことだそうです。
つまり、(特殊なフィルター)とは、音を左脳で言語化してゆくことなのかもしれませんね。この研究が事実ならばですが。

投稿者 スバール : 2009年8月26日 23:55

mrranさん、こんにちわ。
ヨーロッパ文明はギリシャ発祥だから海への憧れが強いのに対して、漢詩では大河は賛美するけど海を描写した傑作が見当たりません。
古代のチャイナ文明には、海の向こうの島に住む人間を軽蔑する気質があったんじゃないかと思うほどです。

投稿者 タツ : 2009年8月27日 16:35

『“儒教”や“道教”がどのようにして生まれたのか?』について、語られると思っていたが、期待はずれでした。
儒教も道教も春秋戦国時代の百家争鳴が元なのだが、
百家の個性の多さには驚くより無い。
儒教は、葬儀を元に礼儀を利用して、国や一族・家族の治め方をまとめたものだ。
道教は、道教になってからは神秘主義や土着の神や仏教をも取り込んだ現世利益的な宗教で、共同体にも利用されている。
元の道家をみれば、人の生き方をテーマとした、哲学である。

投稿者 コルム : 2009年10月12日 12:51

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