2009年7月20日
2009年07月20日
江戸時代の参勤交代制と市場拡大
西欧世界において、イタリアのヴェネチアを初めとするイタリア諸都市が発達した契機となったのが、11世紀末から始まった十字軍遠征だと言われる。
十字軍遠征のような『軍隊が長距離移動することで、移動途中の都市に財が投下される』ことで、商業都市が育ち市場が拡大する。特に十字軍遠征の場合、ヨーロッパ域外での略奪行為を伴うため、ヨーロッパで蓄積されてきた財以上のものが原資となり、市場が拡大して行く。
この十字軍遠征に対応するものが、日本では『参勤交代』だった。大名が宿泊する宿場町、宿場町の周辺産業、物資の輸送を請け負う商人、それぞれが潤うシステムが出来上がり、資本の還流を通じて市場が拡大して行く。特に、各大名が江戸という「一箇所」に「純粋な消費者」とした集中すると、その需要が生み出す経済効果は計り知れないものがあった。
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2009年07月20日
フェニキア→カルタゴ→チュニジアの変遷
いきなりフェニキア、カルタゴ、現在のチュニジアです。
チュニジアの歴史を概観すると、以下の3つに区分できます。
①メジュルダ川の河口に、優れた航海術を持つフェニキア人が紀元前12世紀頃にユテカの町を造り、地中海各地との交易をしていました。
②カルタゴは紀元前814年に、フェニキアの女王エリッサによって建国され、長い歳月を地中海と沿岸の国々や島々を支配していましたが、ローマによって紀元前146年に消滅しました。
③消滅100年後にローマの属州となり「属州アフリカ」として再建されました。
その後はイスラムの侵攻など、多くの経緯を経て1881年にフランスがチュニジアを保護領とする宣言をし、1956年3月20日にフランスの植民地支配から独立しました。
さらに、②のポエニ戦争に焦点を当てると、下記のようになります。
一次ポエニ戦争 紀元前264年~前241年
カルタゴはシチリア半島の西半分を支配し、東半分の北にメッシーナ、南にシラクサが有りました。
シラクサに侵略されたメッシーナは、支援をローマに求めたことから第一次ポエニ戦争に発展していきました。
その結果、地中海第一の海運国で最強の軍船団を持つカルタゴが、400年築き上げてきたシチリア権益の全てを失い、シチリアから撤退し地中海の西半分を失いました。
傭兵戦争 紀元前241年~前219年
第一次ポエニ戦争に参加した傭兵たちの賃金未払いをめぐって、カルタゴと傭兵たちとの間で紛争が起きました。
第二次ポエニ戦争 紀元前218年~前201年(ハンニバル戦争とも言う)
紀元前219年にハンニバルがサグントンを攻撃し、前218年5月にフランス横断とアルプスの山脈越えでローマ侵攻を図る。 アフリカ大陸ザマの合戦でハンニバル軍は全滅しました。
ヌミディア王国との抗争 その後ヌミディア王国との抗争が続く
第三次ポエニ戦争 紀元前149年~前146年
紀元前146年カルタゴは滅亡し、ローマの属州となり、属州アフリカとなる。
ローマは徹底的にカルタゴを破壊し、大量の塩を撒いて人間はもとより草木も生えぬようにしました。
フェニキア人が建国し、カルタゴとして栄え滅亡し、チュニジアとして蘇った国の歴史です。日本史と併せてまとめている年表をみつけましたので紹介します。
そのまえに応援よろしくお願いします。
投稿者 urara : 2009年07月20日 Tweet