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2009年07月15日

遷都について

こんばんは。
 
2010年に奈良市で平城遷都1300年祭が開かれる予定ですが、これにちなんでといってはなんですが、今回は遷都について取り上げて見たいと思います。
 
 
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<平城遷都1300年祭にちなむマスコットキャラクター達>
奈良ねっとHPより
(せんとくんに対する賛否両論の末、新キャラクターが乱立しましたが、かえって注目を集める結果になったのでは。)
どんどんいこう
 
 
まずは遷都の定義ですが、厳密にいうと
 
①日本の首都の機能が完全に別の場所へ移り、天皇の御座所もそこに変わることです。
かつ、ここが大事なのですが、
②『遷都の詔(みことのり)』が発令されていなければなりません。
(詔とは、天皇の言葉、または天皇の命令を直接伝える文書のことです。)
天皇の公的に正式な命令、つまり、②の『遷都の詔』が出された上で、①が断行されたと看做されるのは、日本史上、
平城京への遷都(710年)→長岡京への遷都(784年)→平安京への遷都(794年)
の3回しかありません。

  
YAHOO知恵袋より
 
となるようですが、今回は、もう少しゆるく
 
都(天皇により政や行事が執り行われ、また国中で最も大きく経済的にも栄えたところ(その可能性があったであろうところ含む))の移転と考えておくことにします。
 
 
さて、そうすると最初に遷都し都となったところはどこかということになりますが、藤原京になります。
(それ以前にも、歴代大王の宮室が転々と作られ、その周りには宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたようですが、その遺構が未発見であり、最初に計画的に作られた都としては、藤原京ということになりそうです)
 
 
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<藤原京>
飛鳥の扉HPより
 
 
では、藤原京以降に遷都された都について、挙げておきます。
 
藤原京(694-710) :持統、文武、元明天皇
平城京(710-740) :元明、元正、聖武天皇
恭仁京(740-744) :聖武天皇
難波京(744-744) :聖武天皇
平城京(745-794) :聖武天皇、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武天皇
長岡京(784-794) :桓武天皇
平安京(794-1868) :桓武~明治天皇
東京(1868-現在) :明治天皇~

 
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<各都の位置図>
日本史ウォーキングHPより
あらためて見ると藤原京から平安京に落ち着くまでの約100年間に遷都が繰り返し行われており、その時期に遷都を繰り返し行ったのは、聖武天皇桓武天皇の二人だったことが分かります。
 
では、なんで二人の天皇によって遷都が繰り返し行われたのでしょうか?
 
 
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■聖武天皇による遷都
 
 
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<聖武天皇>
Wikipediaより
 
 
まずは、平城京から遷都したものの、結局、平城京に戻ってきた聖武天皇の時代の遷都理由から。
ことの起こりは、天平12年(740)9月に九州で起きた藤原広嗣の乱が発端といわれています。この乱に動揺した聖武天皇が、平城京を離れ、東国に行幸(天皇が外出すること )に出たというのが定説のようです。
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<行幸ルート>
邪馬台国大研究・ホームページ゚ より
行幸ルートは壬申の乱で勝利した曾祖父の天武天皇が辿った行軍経路と一致しています。
このことより天武天皇の強いリーダーシップに憧れていたのだともいわれています。
最終的には、恭仁京(京都府木津川市)にたどり着き、都を造営するのですが、なぜ、平城京、奈良盆地と比べても狭い場所であった、恭仁京を選んだのでしょうか。
当時の実力者であった橘諸兄(たちばなのもろえ)の支配地であったことが大きく影響しているといわれています。また木津川から淀川へと続く場所でもあり水運の利にもすぐれていたことも理由としてあげられるでしょう。
この恭仁京において、聖武天皇は、国分寺・国分尼寺を建てる勅命を発し、大仏建立も計画したようです。
 
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<恭仁京>
木津川市HPより
 
 
ところが、742年8月、聖武天皇は恭仁京からさらに紫香楽の宮に離宮を建設します。これは、大仏の建立先を求めてといわれています。
ところが、744正月、今度は難波宮の建設を指示します。
一説によると、山の中の紫香楽の宮に対し、海の側の難波の宮の建設は、自身の心身の保養地として、選んだのではないかといわれています。
 
その後、難波宮に移った後、再び紫香楽にもどる一方で、難波宮を皇都として宣言を行う。しかし、このような天皇の度重なる遷都に対して、反体制勢力の抵抗と思われる、紫香楽周辺での山火事事件が頻発するようになります。
ここに及んで、聖武天皇は、百官を集め、彼らの求める平城京へ再び遷都していきます。
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<難波京>
Arctelier 京ことHPより
 
 
このように、遷都や宮をたびたび移した聖武天皇ですが、ではなぜこれほどまでに遷都を繰り返したのでしょうか?
 
大きくは、3つの理由が考えられます。
 
 
第一の理由は、聖武天皇の生い立ちにあるといわれています。
聖武天皇は、宮子という藤原不比等の娘を母親に持ちますが、宮子には精神的な障害があったといわれ、実の息子である聖武天皇を育てられないばかりか、息子との面会さえ許されなかったといわれています。初めて、聖武天皇が宮子と会えたのは、実に誕生から36年後だったようです。
そのため一説には、聖武天皇には、母親の愛情を受けていない、いわゆる幼少期の母親不在からくる優柔不断で情緒不安定な性格を併せ持つようになったといわれています。
 
このことが、「藤原広嗣の乱」に端を発する不安を刺激し、乱冷めやらぬ内に逃げるように行幸へと出発、さらには強いリーダーシップを発揮した天武天皇への精神的な憧れにより、その行幸のルートを天武天皇の行軍ルートをなぞるように転々と宮や遷都を繰り返した理由であり、精神的な依存先として仏教に傾倒し、大仏建立や国分寺の建設に繋がっていったと推定されています。
  
 
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<聖武天皇をとりまく家系図>
夢幻と湧源HPより
 
 
第二の理由は、藤原不比等の娘であり、かつ聖武天皇の実の母である藤原宮子の異母姉でもある、聖武天皇の皇后である光明子の存在が大きな影響を与えていたといわれています。
 
彼女は体の弱かった聖武天皇に代わり、政治の実権をにぎっていくだけでなく、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行うことで、人々の支持を得ていたようです。また仏教に篤く帰依しており、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したりしています。このある意味、后として優秀であった皇后の後ろ盾を基にして聖武天皇は精神的にも支えられていたのではないでしょうか。
 
 
第三の理由は、長屋王の変によって、自殺に追い込まれた長屋王の怨霊を恐れたからといわれています。
天然痘で死んだ藤原四兄弟の一人である宇合の長男であり、九州に左遷された藤原広嗣の乱に端を発していますが、左遷を恨んでいた広嗣は、聖武天皇に対して反乱を企てます。反乱自体は朝廷軍に鎮圧され広嗣は処刑されますが、この反乱の理由ともされた天然痘の蔓延や相次ぐ災害、その原因とされた政治に対する不満、ついには反乱の蜂起と、不幸が立て続けにおこります。その原因を長屋王の怨霊と結びつけ、藤原広嗣の乱が起こるに至り、ついにその恐れは確信に変わり、大きな衝撃を受けると同時に、反乱の余韻が冷めやらぬ時期に行幸へと出発、また新たに仏教という強力な法力を利用することにより、その怨霊を鎮めようとしたということではないでしょうか。
 
 
 
■桓武天皇による遷都
 
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<桓武天皇>
Wikipediaより
  
 
次に桓武天皇ですが、遷都を計画した理由を、桓武天皇を取り巻く状況や平城京の様子から整理すると、大きく2つの理由があるといわれています。
第一の理由は、権力闘争、政治的混乱、政治機構の乱れを収めるためといわれています。
 
1.天武系と天智系(桓武天皇)との争い
氷上川継(天武派)が朝廷に対して謀反を企てるという事件が起こる(氷上川継の乱)氷上川継は伊豆国へ流罪島流しとなり、以降天武天皇系の血筋が完全に絶つことになった。とはいえ天武派の人達もまだ平城京には残っていたでしょうから、天武系勢力の排除・一新するために、遷都の必要があったのではないしょうか。
 
2.奈良の仏教(南都六宗)勢力の台頭
道鏡(どうきょう)」という僧が称徳天皇(しょうとくてんのう)」に取り入って出世し天皇にまでなりかけたという出来事がおこります。この事件に象徴されるように、以降仏教勢力が、政治にまで口出しするようになります。この仏教勢力を排除する目的で遷都を計画したといわれています。
 
3.朝廷の建て直しと天皇の影響力の低下の打開
743年に施行された墾田永年私財法によって土地の私有が認められたため、桓武天皇が即位した時代には、公地制度は十分に機能しなくなり、民衆の掌握や税収が不安定になっていました。加えて、国司・郡司による地方支配地の私財化、その結果、農民の貧困化に拍車がかかった状態になってしまっていました。
こうした腐敗した状況に対し、政治機構の一新化、民衆への負担の軽減、掌握等を目的として、建て直しを図るために、遷都を行ったといわれています。
 
 
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<天武天智系家計図>
“Bloodstained Lineage” ── 異説・宇佐八幡宮神託事件HPより
 
 
第二の理由は、平城京のインフラ施設に限界があったからといわれています。
1.運送力の貧弱さ解消
平城京には大きな河川がなく(大和川、木津川とも少し離れている)、船での大量輸送が困難だった。加えて奈良盆地の樹木の乱伐により、大和川に土砂が堆積し、大和川が水路として使えなくなり、副都であった難波宮にもいけなくなってしまったようです。
2.慢性的な水不足に悩まされていた
近くに大きな河川ないため、平城京は慢性的な水不足に悩まされていたようです。そのため衛生状態も悪く、排水路を設けていたが水がないため使うことも出来ず、街路には住民達が廃棄した汚物で溢れかえっていたといわれています。
 
 
このような理由から、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都を決断します。
 
 
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<長岡京>
向日市HPより
 
 
では長岡京という場所を選んだ理由はなんだったのでしょうか?
 
3つの理由があるといわれています。
  
第一の理由はインフラ条件に優れていたから。
桂川、宇治川、木津川の合流地点に近く、交通の要所でもあり、船運もよく、また水も豊富に得られていました。
 
第ニの理由は、藤原種継の影響力が行使可能な土地だったから。
長岡の地を提唱した当時の実力者である藤原種継の実家があったからといわれています。
 
第三の理由は渡来人の強力を仰ぐことが出来る場所だったから。
桓武天皇の母方のバックボーンである渡来人(秦氏、百済氏)の勢力が強い場所であり、人力、技術力はもとより、彼らの資金的な協力も期待できたからと推定されています。
同時に、渡来人からの影響力が増すことで、平城京での仏教勢力を排させる目的もあったのではないでしょうか。
 
 
しかし、これほどまでに、桓武天皇にとって好条件と思われた長岡京を造営途中で立ち去り、再度平安京へと遷都することになります。
   
  
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<平安京>
楽しい家庭菜園HPより
 
 
では長岡京を離れ、平安京をへと遷都した理由はなんだったのでしょうか?
 
大きくは早良親王の怨霊を逃れてといわれています。
 
1.関係者の相次ぐ暗殺、死亡
 長岡京造営を指揮していた藤原種継の暗殺によって造営に対する士気が低下しまった。そのため工事が遅れだし政治機能の移転が難しくなった。
788年:桓武の側室で藤原百川の娘の藤原旅子が死去。789年:桓武の母の高野新笠が死去。790年:皇后の藤原乙牟漏が死去。792年:18歳になった皇太子の安殿親王が病に倒れる。一連の災いの原因が陰陽師占いによると早良親王の怨霊の仕業ということに。
 
2.天変地異や異常気象が相次ぐ
藤原種継の暗殺の首謀者であった大伴家持(暗殺の1ヶ月前に死亡)に通じていたとされる実の弟である早良親王(実は濡れ衣で本人は何も知らなかったとされている)を淡路島へ島流しにしたが、抗議のため護送中に一切の飲食を絶ち、配所へ着く前に餓死してしまします。この直後から長岡京で天変地異が続発し、早良親王の怨霊の仕業と恐れられるようになった。早良親王の霊を祀ったものの、その直後から洪水などの異常気象が続き祀った効果はでず、ますます長岡京の遷都に反対していた早良親王の怨霊であると恐れられるようになる。
 
3.天皇としての資格の維持
上記の混乱が続くことで、天皇の資質=得が無いと人々に判断され、天皇としての収束力が衰えるのを恐れた。
 
 
では平安京の地を選んだ理由はなんだったのでしょうか?
 
1.桓武に近い有力渡来人で支援の期待できるの秦氏の支配地を選んだ
 
2.怨霊を封じ込める地の利に優れていた
3方を山、南におぐらの池という、陰陽道でいうところの「四神相応の地」に適していた。さらに、鬼門にあたる東北の地に山岳仏教(比叡山、最澄)を配した。(最澄の登用は、平城京仏教に対する対抗としての意味合いもあったことだろう)
 
3.桂川、鴨川を経由して淀川~瀬戸内海と通じており、船運がよかった
 
 
こうして桓武天王によって、平安の都に遷都した後は、1000年以上もの間、平安京が天皇の住まう都として存続することになったのは、みなさんご存知の通りだと思います。
 
 
●今後の追求課題など
 
今回、早足で遷都について紹介してきましたが、疑問点や追求が必要と思われることが出てきました。
また折を見て、調べていければと思います。
 
・都作りに条坊制を取り入れた理由、起源?
・平安遷都以降、東京への遷都まで京都に都が落ち着いたのは?
・聖武天皇が行幸し遷都を繰り返した理由を、当時の朝廷内勢力状況等よりもう少し分析が必要か?
 
 

投稿者 yuyu : 2009年07月15日 List  

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