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2014年01月07日
女たちの充足力を日本史に探る4~平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。
シリーズ4回目は平安時代に進みます。
第3回で女性天皇が平安時代と共に擁立されなくなったという事象を書きましたが、京都に遷都した平安時代を通して貴族社会の女たちにとっては大きな転換期を迎えます。
平安時代は百済系桓武天皇が伽耶、新羅系を完全に押さえきり、百済一系で皇族を押さえた現在にいたる皇室体制の始まりの時です。桓武、嵯峨天皇は着任すると同時に唐からの文化を強力に取り込み、厳格な律令制と仏教を用い、それまでの日本で育まれた縄文土着と大陸渡来文化の混交社会からの脱却を図ります。平安京には1600人の貴族が集結し、あらたな百済系中心の日本社会が形成されていきます。
桓武天皇の絵~こちらよりお借りしました
律令制や仏教は平安以前にも日本に渡来していましたが、厳格なものではなく日本風に改変され、あるいは部分的な取り込みに留まる不完全なものでした。部分的故にそれまでの縄文土着社会の慣習が影響し、それが奈良時代にかけての女性天皇擁立だったり、上流社会へ長く婿入り婚の習俗として表れていました。
縄文社会が共同体を紐帯とする共認社会であり、渡来文明が天皇、大王を中心とする国家社会、その下に序列が形成される私権社会と位置づけた場合、大和朝廷、奈良時代は移行期、過渡期であり、平安時代以降が私権社会の成熟期、完成期と見ることができると思います。
私権社会は男性社会であり、父系社会でもあります。それはこの時代の女性の地位、立場、思いに顕著に現れていきます。それでは平安時代を見て行きましょう。
【平安時代の基礎史観】
まずは平安時代の年表的史実からおさらいしていきます。
赤:大陸外圧の低下 青:唐化、官僚化 茶:和歌、文学
794年 桓武天皇(781~806)平安京に遷都
801年 坂上田村麻呂、蝦夷を平定
805年 最澄帰朝し、天台宗を創む。翌年空海が帰朝し、真言宗を創む。
809年 嵯峨天皇(809~823)即位 律令制の変革、朝儀の整備が行われる。
816年 検非遣使を置く
830年 新選天長格式(所謂律令制の法令)の選集
858年 藤原良房、摂政の職務を行う(藤原氏が官僚世界を牛耳る)
899年 菅原道真大臣着任
905年 古今和歌集(国文学の発起)
907年 唐滅ぶ
927年 延喜式の撰上
935年 新羅滅ぶ
1012年 源氏物語
1017年 藤原道長太政大臣となる
1086年 白河上皇院政を始む
~この頃から武士階級の登場
1192年 鎌倉遷都
このように平安時代は400年に及ぶ日本史の中では最も長く安定しており、260年続いた江戸時代よりさらに長い時代となっています。この平安時代とはどういう時代だったのか?大きくは奈良時代初頭の唐、新羅の外圧が緩み、内政に専念した時代です。
国内的にも渡来勢力の抗争が止揚され、東国も制圧し、念願の百済一系での国づくりが始まります。
【平安時代の女性排除の背景】
桓武天皇、嵯峨天皇により律令制が置かれ唐風文化が敷かれますが、それは最初の頃の形だけで、唐、新羅の滅亡の前後を境に大陸からの干渉が完全なくなり、国風文化と呼ばれる貴族宮廷文化が100年間以上続きます。嵯峨天皇から暫くして藤原摂政政治が行われ、学を重んじ官僚として取り立てた菅原道真を経て11世紀の藤原道長の世に至るまで300年余りの間、官僚が仕切る男社会が形成されていきます。学問と官僚の世界から閉ざされた女たちはイエに分割された狭い社会の中で、その容姿や才覚を磨いて商品価値を高めあう存在に変質していきました。
この百済一系の社会は序列や官僚権力による私権社会を目指す一方で仏教を用いて“穢れ(けがれ)”という概念を使って女性を排除する状況を作ります。女性を排除する事とは、それまでの古代日本が作り上げた縄文と渡来人が融合した社会~神話や神社ネットワークのしくみを排除する事でした。
先の記事でも触れたように女は土蜘蛛と呼ばれ、宮廷であっても男と並んで漢字を学ぶ事を良しとされませんでした。土蜘蛛とは上古に天皇に恭順しなかった土豪たちの事も示しており朝廷に対峙する蝦夷的(=縄文人)集団を呼称しています。つまり、平安時代の女性排除とは縄文的なものの排除と同義だったのではないかと思うのです。
土蜘蛛を退治する絵巻~こちらよりお借りしました。
以後、男女の序列が生まれ、天皇は男性だけ、政治の世界からも女性は姿を消しました。しかしながら、この時代の貴族社会の婚姻制度は従前の時代の婿入り婚を継承しており、武士社会が定着する鎌倉時代に至るまで一夫多妻の婿入り婚が続いていくのです。
この現象をどう見るかですが、貴族とはいえ女社会や女を取り巻く環境は縄文的慣習や価値観が引き継がれていた可能性があります。平安時代は律令というアドバルーンを何度も上げますが、実態は表は守るけど裏では・・・、というなんとも日本的な社会が維持されていくのです。(事実、刑法が整備されたとはいえ死刑も極刑も施行されてきませんでした)
【平安時代は女原理風の社会~故に武家が登場した】
また、平安時代、公家の社会である穢れ概念の登場は、京という町に人が集中し、疫病や災害が度々登場したという事もありますが、何より貴族が闘争を放棄したという事にあります。戦争はまだ色濃く残っていた社会でしたが、公家の中から兵役を完全になくし、俘囚という東国から連れてきた外注兵隊を組織化して京都公家社会を護衛させます。戦いによる殺戮や死は汚らわしきものとして関わる事を避けたのです。いわば人民は善良として社会の必要悪を全て“やくざ”に押し付ける現代社会と近似した状況になるのです。
嵯峨天皇の時代からこれをより強力に進めた事で、宮廷内は一見平穏に、しかし一歩外に出れば無法地帯という状況が作られるのです。そういう意味で貴族社会は俗社会とは全く縁が切れ、女たちの求める安全で安定した人工的な平和社会が一時的に形成されます。しかし男たちは闘争役割が失われているので、女性を巡る恋愛沙汰が日常になり、文や歌の価値が相対的に上がっていきます。そこでは非常に珍しいのですが、男の評価が歌詠みが上手かどうかで決まってくる社会になり、貴族社会全体が女原理風の社会にまとまっていくのです。
歌会の様子~こちらよりお借りしました。
※本来の女原理は男原理とセットになって働くものです。人間社会は一般に、融和・生殖の女原理と闘争・庇護の男原理が外圧に併せて互いに役割分担して適応する事で健全に機能しますが、平安貴族社会は、これが極端に歪な形になっていました。
政治が闘争を排除し、為政者が自らの色恋だけに終始した結果、世は荒れ、社会は乱れます。武士の登場は平安晩期のそういった世相を反映し、最初は地域の自衛組織として登場するのです。言わば公家社会が女原理風一色に染まり、社会統合の機能が失われたが処に自生したのが武士とも言えるでしょう。そう考えると鎌倉時代以降武士社会が社会の統合を担っていったのは当然であって、男女の役割規範が崩れた平安貴族にその要因があったと言えます。この役割規範が崩れていく時代状況が女にとっても男にとっても生き難い「受難の時代」だったと題している部分です。
【平安時代とは・・・】
さて、最後に平安時代という特別な時代を押さえ直してみます。
何が特別なのか?おそらく、大陸由来の私権社会の純度が高まり、男中心の社会になったに関わらず、外圧が急激に緩んだ為、男は解脱収束を強め、平和ボケに近い状況が生まれた特殊な時代だったのではないでしょうか。
女たちは社会的役割を奪われた上に商品価値として求められるようになり、結果、本来女たちがもっていた充足性や活力が奪われ、強力な役割不全、共認不全が生起したのだ思います。平安の女流文学は先に登場した万葉集が自然や生命への交歓の歌に比べて嘆きの歌が多いですが、それは決して男女の恋愛の嘆きでなく、これら生きにくい(私権)社会への恨み節も込められていたように思います。
一方で平安時代通じて和歌や文学、そしてそれらを作る基盤となったカナ文字が広がっていきます。この事は平安時代が400年継続した事と女たちの共認不全と何某か関係があるのかもしれません。次の記事ではこの部分に照準を当てて平安時代が与えた日本史への影響を見ていきたいと思います。
紀貫之のカナ文字
投稿者 tano : 2014年01月07日 TweetList
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