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2009年08月03日

「ことむけやわす」~東北開発の本当の目的とは・・・。

奈良時代から平安時代にかけての最大の騒乱が蝦夷討伐です。
実は歴史書を読んでもこの討伐が何の為に行われたのかしっくりきません。
中国に倣って辺境を夷荻として攻め込んだという説もあります。
また東国に豊かにあった鉱山資源を朝廷が手に入れるためという説も有力です。
今日紹介するブログ「郡山の歴史」さんはそれに対する一つの回答をいただいています。
蝦夷討伐は農地略奪であるとしています。それも、農地に適さない関東地方の移民が朝廷の威を得て開発略奪民に転化したという説を展開されています。
このブログはおそらくは郡山に在住の方が地元の歴史を古代から近代まで俯瞰するという試みをされており、歴史書にない視点が加わっています。少し長いですが、読みやすいのでぜひ一読ください。
付録として巻末に古代蝦夷関連年表をお付けしておきます。(これもネットの他の方のHPから借用させていただきました)
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■蝦夷攻略は何の為に行われたか!
奈良時代以前から東北地方の北部には蝦夷(えみし)とよばれる人々が住んでいました。この人たちを服属させる戦争がこの戦争でした。この対蝦夷戦争は、桓武天皇が任命した征夷大将軍坂上田村磨の活躍で解決したように思われています。しかし、田村麻呂が登場した時にはこの戦争は実質的には収束にむかいつつありました。田村麻呂はその幕引きをしたということでした。
大和朝廷が蝦夷攻略をはじめたのは意外と早く、大化の改新後の三年後の648年にはもう秋田県に砦を設置しています。その後は朝鮮半島での戦争(対唐新羅との戦い)や壬申の乱(天智天皇後の皇位継承をめぐる争い)で、一時休止した時期もありましたが、これらの問題が解決するとまた本格的に進めました。この対蝦夷戦争が終結するのは804年頃ですから、実に150年間も続きました。この戦争がもっとも激しかったのは多賀城が設置された720年前後でした。。
大和朝廷は2方向からこの対蝦夷戦争を進めました。一つは山形県から秋田県にかけての日本海側で、もう一つは宮城県の北部から岩手県南部でした。この両方に兵を送るのに都合がよかったのが宮城県の多賀城でした。ここから北西に進めば山形秋田に行き、そのまま北上すれば岩手方面に行けるからです。そこでこの多賀城に国府と鎮守府を置いて蝦夷攻略の拠点にしました。多賀城府の正式設置は724年でしたが、それ以前から多賀城には砦のような基地がありました。。
日本海側の蝦夷征服は比較的順調に進みました。それは船が使えたからです。大和朝廷はたくさんの船を用意し、兵員と武器を搬送しました。そのうち、多賀城からの陸路も通じるようなりましたから、海陸両面で作戦が進みこちら方面は非常にスムーズに進みました。。
それに対し、宮城県北部の対蝦夷戦争は難渋をきわめました。780年には逆に蝦夷の人たちが多賀城に侵入し、国府が焼き討ちにあったこともありました。この蝦夷との戦いでは大和朝廷軍にも多くの犠牲者がでました。。
大和朝廷が蝦夷を征服した目的がはっきりしません。ふつうは金と馬が目的だとされています。砂金といえば陸奥国ですから、この金を確保するために大和朝廷は蝦夷攻略を行ったとされています。
たしかにこの時期は仏教が広まり各地で盛んに寺院がつくられました。そのため、たくさんの仏像がつくられました。経典によれば仏は無限の光を放つとあります。そこで仏像には鍍金をする必要がありました。聖武天皇が東大寺の大仏造営では金の調達に苦労したように大量の金が必要でした。この金の産地は東北でした。ですから、金が目的ということも理由の一つだったと思います。
しかし、金と馬だけが目的ではなかったと思います。それ以上に大きかったのは蝦夷の土地だったと思います。そうでなければこんなに長く戦争が続くことはありえないからです

大和朝廷の作戦は次のようなものでした。
先ず戦闘兵士からなる軍隊を送り込み、砦を築き橋頭堡を確保します。これを柵(き、さく)といいます。

そして、この柵をしばらく持ちこたえると、ころあいをはかって柵を拡張して城を築きます。この城には治安維持のため守備兵を置きます。

守備兵たちが周辺の治安を維持活動し、土地の住民たちがおとなしくなると、今度は関東や陸奥から農民たちを移住者として送り込みます。この移住者たちが開拓開墾して定住することで大和朝廷の支配地として確立します。

するとまた別の土地に柵を作り、城を築き、内地から農民を移住させる。
この繰り返しでした。

蝦夷征服の目的はこの農民の移住にあったようです
そして、内地からの移住者たちは明治時代に安積原野を開拓した人たちとはちがって開拓開墾などしなかったと思います。彼らはすでにそこで農民が耕している農地を取り上げて自分のものにしました。簡単に言うと略奪です。

未知の土地を自分の力で開墾しようとすれば、悲惨な失敗に終わります。しかし、すでに農地になっている土地を奪えばうまくいきます。移住者の背後には大和朝廷の軍がいました。それで、内地からの移住者たちが安心して続々とやってきました。
この移住については史書や政府の記録にも残っています。その主なものだけでも以下の通りです。
714年  尾張、上野、信濃、越後等から200戸を出羽柵に移住させた。
715年  関東五ケ国から富民1000戸を移住させる。716年信濃、
759年  東国の浮浪人2000人を雄勝柵(秋田県。場所は不明)に入れる。
802年  肝沢城(いざわじょう。岩手県水沢市)を作り、東国10ケ国の浪人4000人を入れる

しかし、実際はもっと多かったようです。「和名抄」には宮城県北部の郡には、白河郷磐城郷というのが3郡、岩瀬郷が1郷あります。これらはいずれも陸奥国の福島県域の郡名です。この移住者たちはこれらの郡域から集団で移住してきた人たちの村です。たぶん、陸奥国ばかりでなく、関東甲信越の諸国から大勢の農民が集団で移住していったと思います
とくに稲作農業の条件に恵まれず、その割には人口が多かった関東からの移住者は多かったと思います。歴史の本を読むと、東国の人々は租庸調の負担ばかりでなく過酷な兵役もあった。その上、蝦夷への強制的な移住と中央政府の強権的な支配のために多大な苦しみを受けた、というようなことが書いてあります。しかし、実際はそうではなく、東国の人々が新天地を求めて自ら移住していったのだと思います。その熱気に押されて政府としても後押しせざるをえなかったのだと思います。それがこの時代の蝦夷戦争でした。大和朝廷の軍事的保護を受けた開拓者たちは意気揚々と北の大地に移住していきました。
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地図は「東北の歴史の実態」より借用させていただいております。
■蝦夷の人たちが取った2つの道・・・俘囚になるかゲリラ戦を戦うか
そうはいっても、土地を奪われれば蝦夷の人々は生活できません。彼らのとる道は二つしかありませんでした。一つはあきらめて土地を明け渡すこと、もう一つは絶望的な抵抗をすることです。
土地を明け渡した蝦夷の人々は俘囚とよばれ内地に送られました。そして、陸奥である福島県域を含め全国に分散して隔離されました。

奈良時代には俘囚稲というのがありました。国府が正倉の稲を出挙として農民に貸し出し、その利息で俘囚たちを養う制度です。この俘囚稲は九州から四国までほとんどすべての国に設けられました。だから、彼らは一見すると保護されたように見えます。しかし、その待遇は決して満足できるものではなく、厳しく監視され差別されました。当然、暴動が起きます。そして、これが俘囚を割り当てられた国の国府の大きな悩みでした。
土地明け渡しを拒んだ人たちは、大和朝廷と戦争をすることになりました。蝦夷の人たちは国家という組織を持っていませんでした。彼らは地域ごとに目の前に現れた敵と戦うことになります。その戦いは戦争というよりはゲリラ戦でした。
この対蝦夷戦争に招集されたのは、主に関東諸国の人たちと陸奥国の人たちでした。陸奥国の領域が拡大すると、福島県域の人たちばかりでなく、宮城県域南部の人たちも動員されました。この兵士には帰属した蝦夷の人たちもいましたが、移住者たちも多かったと思います。
主力は人口が多い関東の人たちでした。政府はそれまで関東の人たちを防人として九州に派遣していましたが、757年からは防人は九州から召集することにし、関東は対蝦夷戦争に専念させました。関東地方の国々は兵員を供給し武器の製造を命じられ、兵士と兵粮を蝦夷に送る兵站基地になりました。関東からの兵士と物資は、東山道を通って蝦夷の地に送られていきました。

やがて蝦夷の人たちから一人の有能な指導者が現れます。アテルイとよばれる人です。このアテルイのため、789年、胆沢城(岩手県水沢市)の戦いでは大和朝廷側は3000人の損害が出し、うち1300人が戦死したという記録が残っています。
しかし、結局は繰り返し大軍で押し寄せる大和朝廷軍の敵ではありませんでした。坂上田村麻呂の出陣でとうとうアテルイは降伏します。802年、アテルイとその母は都に送られ処刑されてしまいました。
アテルイの後、田村麻呂は志波城(盛岡市)を築き、最前線を胆沢城から志波城に移し、この地域を確保することでようやく長い戦争も終結することになりました。志波城の北にも大地がありまましたが、大和朝廷にとっても東国の農民たちにとってもそこは何の価値もありませんでした。そこは稲作には向かない不毛の地だったからです。

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鉱物資源を確保したい朝廷が農地を与えるという名目で関東の農民を兵力にしたと考えればどうでしょうか?蝦夷征圧は朝廷にとっては兵力増強、国土拡大、金、鉄の供給源の獲得と1粒で3度おいしい事業だったのです。しかし、そのツケが平安時代に回ってきます。それが俘囚による各地での反乱ではないかと思います。
古代東北地方の歴史年表をまとめていただいています。⇒古代蝦夷関連年表
蝦夷征伐関連の記事を紹介しておきます⇒「東北の歴史の実態」

投稿者 tano : 2009年08月03日 List  

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コメント

概ね、この歴史観は誤りだと思います。多賀柵は賀美郡にあり、多賀柵が多賀城となりました。多賀城の役目は近隣諸郡の人々が農閑期に過ごす場所であり、国府機能などありません。現在多賀城跡と称する場所は江戸時代に創作された説話に基づくものであり、多賀城跡ではありません。吾妻鑑の奥州征伐部分も創作だと思います。多賀城跡と称される場所や平泉藤原三代屋敷跡と称される場所から該当時代の遺構が検出されていません。賀美郡から離れた場所から出土した多賀城碑は当然贋物です。続日本紀の記述と整合しません。坂上田村麻呂の平定で征討が無くなった訳ではありません。藤原緒嗣の徳政論により軍事とそれに与する造作が停止する事になったのです。信夫郡以南(伊達郡を含む)の旧陸奥国領が陸奥国として平安末期まで続いた。刈田郡以北には移住させられた農民と旧来の住民が混在して住むこととなった。刈田郡以北の城柵は農民が交代で守こととなったのです。伊達の大関は陸奥国衙領と賊地の境に作られた関です。勿来の関と歌二読まれた関は伊達の大関、下紐の関などとも呼ばれました。元慶四年九月五日 [三代格一八] 880年
太政官符
 応レ禁断諸人濫入二関門一事
右得二陸奥守従五位上小野朝臣後生解状一偁、検二案内一、關門有レ禁、
其来久矣、而頃年遊蕩之輩往還任レ情、煩二擾吏委民一、雖レ加二厳制一、
習俗難レ革、望請、官裁、内外官人及諸司家雑色等、非レ就二公事一、
犯レ法濫入者、禁二固其身一、即将言上、但毎レ月結番、差二一分一人一、
令レ守二関門一、若致二脱漏一者、解二却見任一、以懲二将来一者、
 従二位行大納言兼近衛大将源朝臣多宜、奉レ勅、 依レ請
元慶四年九月五日
これが下紐の関と呼ばれたことを示唆する資料です。

投稿者 山田久夫 : 2020年1月21日 15:51

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