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2009年08月02日

武士の起源とは? それは蝦夷なのか?それとも俘囚か?

群盗海賊討伐における俘囚の戦い方は、個人騎馬戦、騎乗しての弓射、騎乗しての反りの入った片刃刀による斬撃ということになり、これは後世の鎌倉武士の戦闘スタイルの基本的要素と同一です。この俘囚戦法が更に発展して武士の戦法になったのです。
この文章はKNブログからの抜粋です。俘囚とは?そして武士との関係は?
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では俘囚とは何?そして俘囚と武士の関係とは?を以下のブログの抜粋から見てみましょう。
KNブログ 日本史についての雑文その344 俘囚問題http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-471.html#more
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以下抜粋
俘囚というのは8世紀終盤から9世紀初頭にかけての対蝦夷戦争で朝廷が捕虜とした蝦夷たちを日本の各国に満遍なく分住させていたもので、要するに強制連行されて各国内の特定の居住区に集団で住まわせられていた蝦夷集団のことでした。蝦夷は日本が倭国と称していた時代から倭国にとっても異世界であり、日本国が成立した後も蝦夷は農耕化されず狩猟を主に行う異民族であり、桓武天皇による同化を目指した征討も結局は中途半端に終わったので、この9世紀後半時点でも東北北部の蝦夷居住区は相変わらず日本から見て異文化地帯のままでした。そもそも捕虜とした蝦夷を俘囚として日本各地に分散居住させるようになった理由は、この中途半端に終わってしまった蝦夷征討戦争の大義であった「天皇の徳による蝦夷の王民化」を部分的にせよ達成するためでした。つまり野蛮な蝦夷たちも日本の各地で暮らしていくうちに天皇の徳を感じて次第に善良かつ忠実な王民となっていくということを実証して、天皇の徳を示すために俘囚たちは強制連行されてきたのでした。
中略
「天皇の徳によって蝦夷が改心する」という徳化思想(のもと)
中略
国司たちは、寛大な扱いをすれば俘囚たちは感謝して自然に同化してくるはずだと考え、決して強制的に同化させるようなことがあってはいけないと考えました。強制的に同化させても天皇の徳を示したことにはならないからです。あくまで俘囚たちの好むようにすることが大事でした。
中略
俘囚たちは他の日本人とは隔離されて集団で居住させられ、俘囚集団内の管理は俘囚のリーダーによって自治が許され、生活は東北地方に住んでいた時と同じように狩猟生活が許され、農耕が強制されることもなく、もちろん租税も免除され、衣食住の面倒は国司が見てくれました。つまり他の日本人に比べれば極めて恵まれた特権的待遇を受けていた。
中略
(その時の)一般日本人たちは重い税負担に耐えてきていたのであり、その彼ら日本人の血税を浪費して俘囚たちはぬくぬくと暮らしていたということになります。日本人側から見てそれが面白かろうはずがなく、俘囚たちは日本人社会から冷たい批判の目で見られるようになっていき(ます)
中略
9世紀後半に入って群盗海賊の討伐に協力するよう国司から要請を受け、そもそも俘囚たちは国司の庇護無くして生きていけないのですから、その要請を断るという選択肢がありようもなく、群盗海賊の討伐要員として動員されることになったのでした。
中略
群盗海賊は小回りの利く少人数部隊で行動し、だいたいみんな馬に乗っており、重い鎧など身に着けず素早く動き、逃げた後は一般人に紛れてしまいます。こういう輩を捕まえるのには鈍重な正規軍というものは不向きでした。しかし群盗海賊の討伐に参加していた富豪有志たちが元々受けていたり知っていたりした軍事訓練というものは律令制軍隊の集団歩兵戦術のそれであり、それは正規軍を相手にして敵の領地を面として捉えてじわじわ押さえていくような軍隊行動に適したものではありますが、機動力重視のゲリラ戦への対応力は低いものでした。
中略
俘囚はずっと狩猟生活を送っていましたので、まず乗馬が日本人よりも巧みでした。つまりスピードにおいて群盗側を上回るので追撃に有利ということになります。そして群盗は奇襲によって獲物を奪った後は戦わずにひたすら逃げようとしますから、逃げる敵を攻撃するには剣や矛よりもロングレンジ兵器である弓矢が重要であり、それも敵陣に向けて漠然と発射する軍隊式射撃ではなく、動き回る少数の敵に命中させられる正確な射撃精度が要求され、しかもそれを乗馬姿勢のままこなさなければならないのですが、俘囚は馬に乗って動き回る獲物を追いかけて弓矢で射る訓練を常に積んでおり、いわゆる「弓馬の術」の達人でありました。
中略
俘囚の持つ刀は、もともと東北地方において馬上から動き回る獲物に斬りつけるために発達したものであったからでありましょうが、片刃で柄が外側に反っており、突くのではなく弧を描くように斬りつけるようになっており、その場合に柄の反りは斬撃時の衝撃を吸収する効果を発揮しました。特に擦れ違い様の斬撃時には突くよりも弧を描くように斬るほうが衝撃も少なく、剣術のバリエーションも豊富でした。
中略
機動ゲリラ戦の名手である蝦夷、つまり俘囚は、群盗海賊に対して圧倒的有利な立場にありました。それゆえ9世紀後半になって国司たちは俘囚に群盗海賊の討伐への協力を要請したのです。
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抜粋終わり
俘囚たちは大活躍でしたが、その元々の存在基盤の曖昧さから最終的には897年に陸奥国へ送還され元の暮らしへ返って行きます。(これもKNブログを読むと詳しいので先を読んで見てください。)
歴史から消えるわけで、俘囚=武士にならないのです。
では俘囚と武士の関係は? 🙄
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以下抜粋
俘囚たちと共に戦った富豪有志たちは、
中略
少しずつ俘囚の戦い方を模倣していきました。この群盗海賊討伐における俘囚の戦い方というのはつまり、個人騎馬戦、騎乗しての弓射、騎乗しての反りの入った片刃刀による斬撃ということになりますが、これは後世の鎌倉武士の戦闘スタイルの基本的要素と同一です。この俘囚戦法が更に発展して武士の戦法になったのです。つまりこの9世紀後半の俘囚と共に戦った富豪有志たちこそが武士の起源ということになります。
それゆえ、後世の武士は騎馬を好み、弓矢の術に長じていたのです。そしてそうした武士同士が戦うようになったために、弓矢はより遠くまで届くほうが有利なのでどんどん弓は大型化し長弓が生まれ、騎馬接近戦時の斬撃戦ではより刀が長いほうが有利であるので刀身はどんどん長くなり太刀となり、すらりと伸びた反りの入った片刃刀、すなわち日本刀が生まれるようになるのです。また、そういった長弓や日本刀による攻撃から身を護るために鎧兜は大型化し、それでいて騎馬時のスピードを殺さないように軽量素材が好まれたため、分厚い皮革製のものが好まれるようになり大鎧が生まれるようになるのです。また、後世の武士が朝廷のお墨付きによって追討側に立つことを好み、追討される側に立つことを極度に嫌う傾向を見せるのも、武士がその起源において群盗の追討要員であったということにアイデンティティを見出していたからでありましょう。また、やたらと恩賞にこだわるのも、敵の首を取ることを好むのも、戦場で名乗りを上げたり舞を舞ったり和歌を詠んだり、また一騎打ちをやたら望んだり、とにかく戦場で派手な振舞いをして目立とうとするのも、その起源が賞金首を狙う賞金稼ぎであったからでしょう。
そして、本来は天皇の役目であるはずの治安維持の役割を代行し、天皇の身代わりに穢れ仕事をあえて引き受けているという自負心、天皇の分身としての自尊心がやたらと強いために、卑怯な振る舞いを嫌い、勇猛を尊び、その武力を私欲のために使うことを厳しく自制する傾向が生じました。そしてその一方で、その自尊心の強さゆえに面目を失うことを極度に嫌い、自分の面目を汚されたと判断すれば、面目を回復するために武力を行使することを躊躇わないようにもなったのです。

しかしこの富豪有志たちはこの9世紀後半の時点では、まだ武士そのものではありません。彼らはまだ武芸訓練に専念出来る特権は与えられていないからです。彼らが武士に成長していくのは、そうした特権を既に与えられている俘囚たちが10世紀初頭にいなくなった後、その不在を埋めるために新たに彼ら富豪有志の一部に武芸訓練特権が認められて以降のことになります。
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抜粋終わり
俘囚が全て陸奥国に帰った後は、全国的に治安が乱れてその治安維持要因が求められるようになります。ここにおいて初めて武士が登場することになります。武士とは俘囚(=蝦夷)を基本としていることが見えてきたように思います。この後の動きを調査したいと思います。 😀

投稿者 sakashun : 2009年08月02日 List  

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コメント

ユダヤ資本が世界に強大な影響力を持つまで

“Trend Review”というブログにおもしろい記事が載っていた。
「東欧系ユダヤ人がアメリカのメディア産業に進出したのは、何で?」
http://w

投稿者 にほん民族解放戦線^o^ : 2009年9月12日 02:15

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