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2009年09月09日
仏教の歴史について ~インド・中国・日本~
こんばんは。
前回は、遷都についてエントリーさせていただきましたが、平安遷都の理由の一つとしてもあげられていた、奈良仏教の影響から自由になる目的で、新興の平安仏教を保護しました。その創設者は最澄と空海です。
この両者は、今日の日本における仏教の基礎をつくったともいわれています。平安仏教については次回のテーマとさせていただいて、今回は、仏教の源流から平安仏教にいたるまでの、その概略の歴史を紹介していこうと思います。
<、ブッダガヤの菩提樹>
光善寺HPより
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仏教が日本に到達するまでには、大きくはインド、中国、そして日本という伝来ルートとなります。この3国について順番に見ていきましょう。
■インド
仏教の生みの親、ブッダが生まれた国インド。このインドの思想、宗教の歴史的区分けは、おおよそ6期に区分されます。
第1期(紀元前2500-1500)インダス文明
第2期(紀元前1500-500)ブラーフマニズムの時代
第3期(紀元前500-紀元600)仏教の時代
第4期(紀元600-1200)ヒンドゥ教の時代
第5期(紀元1200-1850)イスラム教の時代
第6期(紀元1850-現代)ヒンドゥ教復興の時代の時代
大きく捉えると、インドの思想史は、バラモン正統派とそれに対抗する勢力との抗争の歴史であり、バラモンを中心とした勢力が、時代により仏教やイスラム教といった対抗勢力によって抑えられた歴史であるようです。
第1期
インダス文明の栄えた時代であった。この時代の宗教思想についてはよく分からないようであるが、多神教的な崇拝形態であったと推測されている。
インダス文明に含まれていた要素が、後の密教の成立にとって重要であったといわれている。
第2期
バラモン中心主義の時代。ヴェダ聖典による祭式と、宇宙の根本原理を知ろうとする聖典ウパニシャッド(奥義書)群による宗教的な2つの柱によって支えられた時代。
儀礼行為(カルマ、行)と知識(ジュニャーナ、知)の追求であり、今日まで続くインド思想史の主要なテーマとなった。
第3期
仏教が生まれ、バラモン中心主義と充分に対抗できるほどの勢力を保った時代。
富を蓄えたアーリア人の商人が登場し、商人層や武士の支持層を得て拡大。
ブッダの滅後、半世紀までのブッダの教説が語り継がれ教団内部でのブッダの教説に対する解釈の相違がおきなかった「初期仏教」の時期を経て、解釈をめぐって論争がおき、仏教集団が多くの部派に分かれた「部派仏教」の時期、さらには紀元前後に仏教内に起きた「大乗仏教」の運動の時期に分かれる。
<断食する仏陀像>
瑞樹録HPより
第4期
ヒンドゥー教の勢力が仏教をしのぐようになった時代。
5世紀の中葉に西ローマ帝国が崩壊し、通貨共同性によって西世界との交易によって富を築いていたインド商人の没落に伴い、仏教は勢力を失っていく。
この時代、仏教は、教義を拡げると同時に、ヒンドゥー教を取り込み、密教化への形をとり始めたが、このことは同時に、仏教の衰退に繋がることとなった。(中期仏教密教)一方でバラモン中心主義は、土着的な要素を吸収し、形を変えてヒンドゥー教として成長しつつあった。
その後、仏教密教は、宗教行為としての性行為を条件付で是認し、さらにそれまで土着的文化の中に存続してきた「血・骨・皮などの儀礼」を受入れ、後期仏教密教へと形を変えていった。この仏教密教は、ネパールやチベットへ伝えれらた。
最澄や空海が接することの出来た仏教密教は、この後期密教が成立する前の、中期仏教密教であり、9世紀以後の後期仏教密教は、その後、遣唐使制度が廃止されたこともあり、日本へは伝わらなかった。
<マヘーシュヴァラとウマー>
アジアの宗教美術と博物館HPより
第5期
イスラム教徒による政治的支配を受けた時期。
僧院を中心に活動していた仏教は、イスラム教徒による僧院破壊の後にインドより仏教が消滅した。
一方、ヒンドゥー教は、僧院主義をとっておらず、師から弟子へ、親から子へとその教義や儀礼が伝えられていたので、イスラム教徒の政治的支配を受けても自らの文化を発展させることが出来た。
第6期
19世紀中葉のイスラム支配の機運、そして20世紀のイギリス植民地からの独立の精神的な支えとしてのヒンドゥー教の復活の時期。
■中国
第1期(紀元25-316、後漢-西晋)伝来の時代
第2期(紀元316-581、五胡十六国-南北朝)定着の時代
第3期(紀元581-907、隋-唐)成熟の時代
第4期(紀元960-1279、宋)民衆浸透の時代
第1期
西域出身者を通じて仏教が伝来し、中国人がそれを受容した時代。紀元前1世紀に伝来。
中国の西隣の西域地方には、インドマウリア朝時代に仏教が伝えられており、前漢の武帝が西域地方に進出したのをきっかけに、中国に、西域から外国の任原野文物が多くもたらされるようになった。
紀元2世紀ごろには西域地方から仏教僧が次々と中国を訪れ、仏典の中国語訳に携わった。
第2期
4世紀後半以降、仏教が中国の一般社会に宗教として流布した時代。
仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)が西域から来て仏典の翻訳を精力的に行ったり、法顕(ほっけん)が直接インドにや西域に出かけたりした。この時代、一般社会に仏教が定着していった理由として、仏教の呪術的な機能を求めたことによる。除災や病気治癒、怨霊払いといった現世利益の側面が人々の心をひきつけた。西域等からやってきた仏教僧の多くが霊能力を備えていたと伝えられている。
<鳩摩羅什 (くまらじゅう)>
広済寺HPより
第3期
中国仏教が開花した時期。
隋の時代には三論宗や天台宗が発展し、唐の時代には法相、華厳、律、禅、浄土、密教が勢力を得ると同時に、仏教の各方面に対して優秀な仏教者を輩出した。
この時代の仏教は、それまでの呪術的行法や現世利益にあるのではなく、仏教が本来求めていた悟りあるいは輪廻からの解脱にあった。
唐時代の仏教密教もそれ以前の仏教密教とは大きく異なり、7世紀にインド仏教密教が呪術的密教から宗教的悟りの感得を目指す宗教への転換を迅速に反映し転換した。9世紀初頭に空海が日本に伝えたのは、この転換後の仏教密教だった。
9世紀初頭に最澄が学ぼうとした天台は、隋の時代のものであり、一時期は唐の時代に隆盛した他派におされていたが、最澄が中国にわたる頃には再整備され再び有力な教義となっていた。
一方で空海が学んだ仏教密教は、密教の重要経典である「真実摂経」他、多くの密教経典が漢訳され整備された時代であり、翻訳者の弟子やインド密教僧もおり、直接に彼らから教えを伝授されることが可能な時代だった。
第4期
仏教が道教、陰陽道、神仙道と混合しながら、民間の信仰や習俗の中に浸透していった時代であった。
■日本
日本に仏教が公式に導入されたのは538年、百済の聖王16年の時といわれている。その後、仏教の経典や尊像が導入され、7世紀には国家仏教が成立、各地に国分寺が造営された。
<奈良県東大寺大仏>
ユウ! HPより
律令国家の統制、保護の下にあって、8世紀中葉には南都六宗(華厳、法相、三論、律、倶舎、成実)が整った。国家の統制の基で育ってきた、この奈良仏教は、その末期に政治にも関与する力を持っていた。仏教僧のままで太政大臣禅師・法王となった道鏡の権勢が絶頂にあった時代であった。彼はその後、自ら天皇に着こうと計略を図り、失脚する。
その後、間もなく皇位を継いだ光仁天皇は、仏教の粛清を行い、その際、山林修行の公認した。それ以前は、正式の戒を受けた仏教僧は山林での修行や山林修行者たちと交わることを禁止されていた。
「山林修行」は古代から伝えられた山岳宗教の技法習得を意味していると思われるが、南都六宗を中心とする奈良仏教は、インド・中国より導入した精緻な教理体系、実践形態を重視し仏教であり、「山林修行」による日本が古代から持ち続けていた、アミニズムやシャーマン的な要素は拒否されていた。
この山林修行者に対して得度(公的な出家)を認めたのである。このことは、日本仏教がインド的仏教を離れて「日本型仏教」あるいは日本型宗教へと変質する一つの要因となった。後に登場する最澄や空海も山林修行者であった。
古代の日本人にとって神とは自然を超越した絶対神ではなくて、山や川、樹や動物、時には人間であり、山や樹そのものを神だと感じていた。山岳宗教はこうした色合いを持ち合わせていた。
<修験者>
金剛山 転法輪寺HPより
その後、桓武天皇になり、平安遷都が行われるが、遷都の理由の一つに伝統的な奈良仏教勢力からの自由になることがあった。(先のエントリー遷都について参照)桓武天皇を始め、当時の権力者達は、新しい型の仏教による観念体系を望んでた。このため、最澄や空海が天皇の庇護、援助のもとに存在することが可能になり、最澄は、唐に渡ること天台宗を開くことができ、空海も朝廷との深い結びつきの中で活躍ができることとなった。
さて、最澄ですが、彼は中国に渡り天台の教えを学んで帰ってきますが、この学んだ教えを日本に伝え定着させるに当たって、日本風にアレンジ、発展させたといわれています。
もともとインドでは同じ生命体でも、六道に輪廻する衆生(生命を持った人間を含む動物類)とほ草木(植物)とははっきりと区別されたおり、悟りを開く可能性は前者のみに認められていました。
仏教が中国に伝わり、宗派によっては後者に関しても、その可能性について議論されるようになりましたが、あまり明確ではなく、中国仏教全体としての主要な位置を占めるには至らなかったようです。但し、最澄が学んだ天台は、その中でも、最もこの議論が盛んな宗派であったようで、最澄自体も、この思想を学んでいます。
<最澄>
日本史に残る人達HPより
この思想を持ちかえり、日本に伝える際に、かつて山林修行時に体得し、また日本人が持ち合わせている、山や樹そのものをカミだと感じる本源的な感覚を基に、いわゆる「草木成仏」という考え方として昇華させたようです。草木成仏をごく簡単に言えば、あらゆる動物はもとより草や樹を始め生命体に、さらには山や川、石などにまで仏性があるということのようですが、逆にいいかえれば、あらゆるモノの背後にカミ、精霊を見ることが出来るというものの見方、日本人古来の本源的な考え方をベースとして取り入れたからこそ、日本人に受け入れられ、後の日本において大衆レベルにまで仏教が定着していくことになった要因の一つだったといってもいいのではないでしょうか。
この考え方が、「本覚思想」として、天台宗を中心に伝承されていきます。(真言宗にも同様の思想あるようです) 鎌倉時代に、延暦寺で修行し、その後、鎌倉新仏教として、花開いた現代まで続く各宗派の創始者(法然、親鸞、栄西、道元、日蓮)によって、この思想が受け継がれ、あるいは解釈しなおされる等、影響を与えつつ、日本仏教としての発展に寄与していったようです。
鎌倉仏教は、大衆へと裾野を広げていき、日本史上最も仏教が繁栄した時代となります。
この思想性は、その後の日本の仏教思想のベースあるだけに留まらず、日本文化の基底部の一つとして影響を与え各分野に拡がっていきます。
■まとめ
まとめると、インドで生まれた仏教(インド仏教)はその後、小乗仏教、大乗仏教、密教へと変化していく。一方で中国に伝わり漢訳され、その後、華厳や天台、禅のような中国独自の教学、修行法が生まれていく(中国仏教)。そして、日本に伝わり、日本人の持つ特性、本源性に合わせ、さらに日本仏教へと変質し、広がっていった(日本仏教)。その他、チベットに伝わったチベット仏教や東南アジア等の南方に伝わった小乗仏教も、日本に伝わった仏教と同様に、各地域の特性と融合し、変化しながら伝わっていった。
<仏教の伝播>
大信寺HPより
今回は、仏教の概略の歴史を、インドから中国、日本まで、ザーッと紹介しました。
現在の日本においては空海が人気があるようです。また秀才肌の最澄と天才肌の空海と比較されたりもしているようです。今回は、あまり空海については触れていませんでしたが、できれば次回は、平安仏教の2大巨匠、最澄と空海について、その魅力について、もう少し詳しく紹介し、その人気の秘密に迫まれればと思います。
<概略仏教史>
■引用・参考文献・HP
最澄と空海 立川武蔵著
日本仏教史 末木文美士著
仏教研究HP
投稿者 yuyu : 2009年09月09日 TweetList
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コメント
投稿者 うらら : 2009年11月6日 11:16
>うららさん
この間の「官僚制度」の追求を通じて、私自身も「官僚の定義」つまり「官僚とは、どんな人のことを指して言うのか」を考えるようになりました。
今、おぼろげながら見えてきているのは、「何らの生産手段を持たない人間」とでも言うべきものかなと感じています。その意味で、給料によって雇われた人=サラリーマンの原型が、官僚と言えるかもしれません。
投稿者 ないとう : 2009年11月6日 13:44
現在「BS日テレ」で大王世宗(李王朝四世でハングル語をつくった)を放映してますが、朝鮮王朝の官僚制度が良くわかる様です。日本では室町時代初期頃(1419年)で、中国は明朝の永楽帝の時期です。
投稿者 半杭正幸 : 2009年11月6日 19:13
>文官より低く位置づけられた軍には優れた人材が集まらなくなり、ならず者の巣窟となっていく。兵士数こそ拡大したものの、軍としての統合が保てなくなり、軍事面での弱体化が進行していく。
結局、試験制度とは、国や、その国に住む人々達の暮らしには目が向かず、ひたすら自分の権益の拡大のみに腐心してゆく構造のようですね。
それが当たり前になると、いかに自分の権益を拡大するかに意識が向かい、多数派が制する民主主義の時代では派閥という集団に収束してゆく。しかし派閥の結集軸が自分の権益の獲得では国をダメにするだけですね。
どこかの国の某自民党のようだし、そこに政策を流していた官僚達のようですね。
>「何らの生産手段を持たない人間」とでも言うべきものかなと感じています。その意味で、給料によって雇われた人=サラリーマンの原型が、官僚と言えるかもしれません。
・・ないとうさん
試験制度が残る今、このようなサラリーマンが拡大再生産されていると思うとやばい!と感じます。
投稿者 saka : 2009年11月7日 22:18
投稿者 ないとう : 2009年11月10日 18:25
>sakaさん
>結局、試験制度とは、国や、その国に住む人々達の暮らしには目が向かず、ひたすら自分の権益の拡大のみに腐心してゆく構造のようですね。
官僚でない私たちから見れば、当時の官僚が「そのように見えて」しまいます。ただ、彼らも主観的には国のため、集団のため、頑張っていたはずで、それがなぜ大きく逸れて行ってしまうのか?・・・ここに、官僚制というシステムが持つ欠陥が潜んでいるように思います。
現在でもアメリカの大手企業の多くが人材育成プログラムに、米軍の新人兵育成のプログラムを導入していることからも分かるように、企業の(序列的)組織論も遡れば軍隊発です。この軍隊とは、遊牧集団的な軍ではなく、国(官僚)によって統制される軍隊ですから、官僚(制)のシステム的欠陥と、企業の組織論におけるシステム的欠陥は、多かれ少なかれ似通ったものになるはずです。
投稿者 ないとう : 2009年11月10日 18:32
塩野七生さんは、大著「ローマ人の物語」の最終章で、ローマが滅んだ最大の原因を「生産しない人々の増加」にある、と端的に指摘されています。
言うまでもなく軍人と官僚の増大、加えて司教を初めとする専業聖職者、そして大規模農園の所有者でもあった元老院階級。これらを4大非生産者であると断定しています。
後世からみて、ディオクレティアヌスの最大の過ちは、すべての職業を世襲制としたことだと思います。
それによる非生産者ののさばりが、元老院階級から公共心(富めるものが私財を投じるのは当たり前という観念=ノブレスオブリージュ)を奪ったということでしょう。
役割(自分がなすべき仕事はなにか?)を認識しなくなった集団には「崩壊→滅亡」というしか残されていませんでした。
参考記事→http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=210834