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2014年02月15日

日本における仏教が果たした足跡~プロローグ

日本は世界でも有数の仏教国です。
ところがその中身についてはインドの釈迦が興した小乗仏教や中国での大乗仏教・密教とは大きく異なり、いわば日本に入る事により、中国の漢字がカナ混じりの日本語になったぐらいに改変され、元の仏教とは似ても似つかぬ日本流の宗教になっていったのです。さらに宗派もいくつにも分かれ、同じ仏教でありながら教えも経典も異なっていきます。現代に至っては神仏習合、さらにはキリスト教まで入り込み、日本人全体が無神論者とまで言われるように無色透明になっていきます
これまで当ブログで何度かこの日本の宗教のテーマを扱ってきました。
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か
シリーズ「日本人は何を信じるのか」~6.葬式仏教とは
なぜインドで仏教が根付かなかったのか6~仏教の成立、社会とのズレ
日本人は縄文体質で基本は自然崇拝で多神教なので仏教には馴染まない、だから大衆の多くは無神論者で仏教とは形式だけを受け継いだ葬式仏教、そういう考えを持ってきました。
しかし、まだしっくりいかない部分も残っています。無神論者とはいえ事あるごとに仏教の儀礼を生活に取り込み、また数ある宗教の中でも最も身近で親しみのあるのも仏教です。
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画像~京都東山の【六波羅蜜寺】・駒沢大学、座禅風景・数珠
なぜ仏教が日本で広がり親しまれてきたのか?
そこには歴史を貫いた何らかの要因があるはずです。

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仏教が取り入れられた頃、それより数百年先んじた時代に日本には大陸から国家の仕組み、支配―被支配の私権社会の仕組みが丸ごと取り込まれました。しかし大多数の農業を営む庶民は、それまでの縄文時代の共同体社会をイエ社会に変えながら、集団で生きていく共同体社会として温存されていきます。

縄文時代から弥生時代、さらに渡来人が中心となって立てた大和朝廷、その後の貴族中心の社会から武家の社会へと、複雑な日本社会を統合する上で常に何らかの統合観念が必要になったはずです。支配者側から見た大衆、大衆側から見た支配者、それを馴染ませる位置に仏教があったのではないでしょうか?言い換えると私権社会の純度が進んでいく中で、仏教の観念が規範を支え、心の世界を安定させる装置としてあったのではないでしょうか?
それが例え現実世界から離れた欺瞞観念であれ、日本における仏教は単に個人にとっての“救い”というだけでない、社会的に重要な役割を果たしてきたように思います。この考えは未だ直感的で仮説的ではありますが、今回のシリーズのを進めていく際のとっかかりとして設定し、日本仏教の本質、在り様を探っていきたいと思います。
さて、日本での仏教はいくつかの転機があります。
最初は百済から持ち込んだ形式だけの支配者の為の仏教です。仏具や仏教建築のみが先行し、思想は後に回りました。唐からの攻撃に備える為に形だけを整えたのです。
2回目は空海、最澄の時代です。この時代に始めて空海は仏教の思想を日本風に改変するという偉業を成し遂げます。空海が興した密教の思想は、仏教が持つ現実世界の否定を否定した日本にしかないオリジナルなのものです。
3回目は鎌倉仏教です。この時代は武家が起こした最初の幕府です。京都から全国へ拡大し現代に繋がる仏教、いわゆる大衆仏教が広がっていきます。それまでの難解な仏教はより簡素化され、解りやすいものに変化していきます。
親鸞が「信心さえあれば」と大衆に教え、一遍上人はその信心すら不要、念仏を唱えるだけで極楽浄土へ行けると、人々を導きます。
また、天台宗では、円仁以降連なる自然崇拝を取り込んだ土着仏教が拡がっていきます。
4回目は親鸞聖人を引き継いで拡大した浄土真宗による教団仏教です。浄土真宗は室町時代に一気に大衆化し、江戸の檀家制度の確立と共に庶民に根付きます。同時代には蓮如上人が登場し、講和を中心として仏教はより身近なものとして大衆から支持されていきます。
いわば仏教とは時代に求められる認識や人々の不全に答える形で、その時々に姿、形を変え、適応してきたのだと思います。言い換えれば仏教とはGODという唯一神を持ち時代や地域に左右されない西洋型一神教とは異なっており、そういう宗教の形として日本に登場、定着した総体ではなかったかと思うのです。
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岡山県「仏教寺」
【著書から紐解く日本仏教の実態】
1950年代に著された「日本の仏教」という書籍において日本の仏教の実態はやや否定的に以下のように書かれています。これからこのテーマを考えていく上での基礎的、対岸的考えとして提示おきます。
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紀元前6世紀末に成立した仏教はインドの国内でも多くの変遷をとげたが、紀元前後に中央アジアに達し、続いて第一世紀には絹の道と称せられる旅商の交通路伝いに中国に届いた。中国から朝鮮半島を通り、後には直接に中国から日本に仏教が伝えられた。その途中ですでに何段階かにわたって、地方的、民族的な変化を受けていたのであったが、日本に来るとさらに日本民族独特の色彩が加えられた
仏教がインドやインドに隣接する地方にひろまったのは民衆と民衆との接触によるものであった。紀元前3世紀におけるマウリヤ王朝のアショーカ王以前の仏教教団の実態については資料が乏しいが、アショーカ王がこの信仰に入る前に、すでに民衆の間に仏教がかなり広く行われていたことは確かである。
しかし仏教がその祖国を遠く離れて中国まで来ると事情はまったく異なってきた。外国人の官吏や商人、ないしは僧侶と最初に接触したのは支配者やその一族であった。2世紀の中頃、桓帝のときに宮中で黄帝、老子および仏陀をまつる儀式を行ったり、金人をまつって催しをしたりすることが王や貴族のあいだに流行した。

6世紀の中頃になって日本に仏教が伝えられたときもそれと同じであった。百済の王からわが天皇への贈り物としてはじめて届けられた仏像と経巻は、もっぱら天皇や貴族の用にあてられた。その後、徐々に社会の中層から下層にも伝えられてきたが、日本の仏教がその起源において下層からではなく、社会の最上部層からはじまったこと、また、当人の自発的意思ではなく支配者の宗教儀礼を執行する為に僧侶がつくられたこと、この二つの事実は日本仏教を理解するために特に注意しておく必要があり、多くの変遷を経た現在においてもこの特質からは脱却していない。
古代日本人は社会的な幸不幸を目に見えない存在の所為と見なした。精霊をカミと呼び、カミの恵みを求めて、またカミのたたりを避ける為に宗教儀礼が必要となり、新しく輸入された仏教は、従来の原始神道にもまさって効果があるものと認められた。仏教の呪術はあらゆる時代を通じ、現在においてさえも重要な役割を演じている。神道の場合も儀礼は行われたが、新年を祝い、豊作を祈り、家屋の安全を祈る業に用いられたが、仏教の場合は災害の予防、すでに生じた災害、病気の治癒、雨乞いなどに仏教は有効であると信じられてきた。
そして最大の特色は死者の儀礼である。農耕民である日本人にとって家単位で祖霊信仰が重要な意味を持ち、死者儀礼はおもんじられてきた。死者の弔いをもって仏教は上層民から下層民に僧侶たちの手で一般化されていった。 
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さて、今回解明していきたい焦点として改めて以下に固定します。
①日本仏教は大陸仏教と何が違うのか?
②日本仏教の教えとは本質は何か?
③大衆に広がった仏教は何を伝えたか?
④現代仏教が陥った穴と、次代に求められる心のありようとは?それは宗教なのか

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こちらよりお借りしました。
★これらを明らかにしていく上で、シリーズは以下のように進めていく予定です。
1)大陸仏教の渡来の足跡と日本での受け入れ
2)空海はなぜオリジナルの密教を作り得たのか
3)天台宗は土着仏教ではないか
4)一遍上人が説いた教えは何か?
5)鎌倉仏教はなぜ大衆に広がったのか
6)浄土真宗は何を果たしたか?
7)蓮如上人が語った本質とは?
8)現代仏教はなぜ役割を失ったのか?
9)シリーズまとめ~日本仏教の本質と次代が求めている心の世界

投稿者 tano : 2014年02月15日 List  

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