日本における仏教が果たした足跡~プロローグ |
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2014年02月20日
自考力の源流を歴史に学ぶ(結) ~次代につながる追求土壌~
本シリーズのプロローグは、「今、なぜ自考力なのか」という問題提起から始めました。
その背景となる現在の状況認識として、
●リーマンショック以降、世界経済は急速に混迷の度合いを深め、昨年はアメリカのデフォルト騒ぎで騒然としたこと。
●311原発事故以降、政府・官僚・御用学者・マスコミによる情報の隠蔽と捏造が繰り返され、その体質が露呈されたこと。
●ネット界を中心に、民主主義の根幹を揺るがすような不正選挙の疑惑が持ち上がっていること。
こうした背景から、人びとは無意識のうちに彼ら(お上)を見限り、自ら考え、自ら生きていく場を作り出していく方向に舵を切り出しました。その表れが、生きていくことに直結する食や農業、健康・医療、教育などの分野で、自ら探索し追求していこうとする潮流です。このような自給・自考への期待と潮流は、今後どのような方向へ向かい、どのような可能性を秘めているのでしょう?
8年間にわたり、縄文以来の日本人の歴史を追求してきた当ブログとしては、日本人の歴史の中に自給・自考のヒントがあると確信し、本シリーズでその可能性と実現基盤を考察してきました。
今回は、総集編としてこれまでの内容をまとめます。
◆手の文化が生んだ「モノづくり」の追求土壌
日本人の源流をなす縄文時代は、豊な自然と孤絶した島国という特異な環境から、世界に先駆けて定住生活が始まります。その結果、それまで移動に要していた時間を、土器、櫛、網、釣り針、漆塗り、炭作りから家や舟といったモノ作りにあてることで「手の文化」が醸成されます。
やがて人口が増え、集団間が隣接するようになると、集団間の緊張圧力(人類初の同類圧力)が高まり、その解消は各集団にとって相当大きな課題となります。この課題に対して縄文人は、それまで醸成してきたモノづくりの基盤を生かし、集団にとって大切な黒曜石や土器を相手集団に贈与することで、集団間を融合させていきます。
相手集団に贈与する土器や土偶は、集団の存続をかけた期待の結晶物であり、「神具」としての性格を帯びるようになります。その結果、様々な試行錯誤と工夫がなされ、表現の複雑さ、造形の美しさを極めていきます。
∴同類圧力の上昇という外圧の変化に対して、集団間の贈与ネットワークを構築し、自集団はもとより相手集団の期待に応える「モノづくりの追求土壌」が生まれます。
◆モノづくりに込められたアニミズムの精神
集団の期待を受けたモノづくりは、どのような意識で取り組んだのでしょう。
縄文の森で日本人は、「もののけ」を全身で感じ取りながら生きてきました。自然の微妙な変化をも見逃すまいと生きてきたのです。もっといえば、自然の中に「神々の揺らめき」さえ見出そうとしていました。多様な自然への対応が、おのずから細やかな感受性を生んでいったと考えられます。
それに加え、日本人は物づくりにおいて、自然の素材をできるだけ生かそうとします。素材を生かす中でも特に「木を生かすこと」には特別な意味があります。「アニミズム」つまり木に潜む霊威、もっといえば木を依り代として神が降りるという「マナイズム」など、森の中で育まれた意識があります。
アニミズム的意識においては、自然を征服しようとせず、自然を生かそうとします。 日本人が工芸や料理などで素材を生かそうとするのはその表れです。
◆縄文のモノづくりと渡来技術の融合
飛鳥時代になると、大陸の寺社や神器・装身具・武具・工芸品などの技術を携えた技術者集団が渡来します。彼らは西日本を中心に天皇や寺院・寺社などに仕え、身分としての職能集団となります。
一方で、古代から蹈鞴(たたら=製鉄)については、平民たちによって行われていました。美濃・尾張以東の東国では、ほかにも素材を生かしたモノづくり(絹・綿・布・糸や、鉄・金・緑青、瓦、木器)が行われ、年貢として納めていたことがわかっています。
中世になると、大陸伝来の職能集団は、各地を自由に行き来し複数の主に仕える自由人としての性格を帯びていき、その内容も多種多様になっていきます。※鎌倉時代の絵巻物には、医師・陰陽師・鍛冶・番匠・刀磨・鋳物師・経師など、様々な職人が登場します。
彼らは日本各地にモノづくり技術を伝播し、平民たちとの人的・技術的な融合がなされます。
縄文以来のモノづくりの追求土壌は、対象への同化能力が極めて高いことから、急速に大陸伝来の技術習得が進んでいったと考えられます。その結果、陶器・漆器・鉄器などが一般庶民の日常生活の道具として使われるようになります。
∴縄文の追求土壌(対象への同化能力)と、大陸伝来の職人技術が融合し、日本独自の職人気質が醸成されていったと考えられます。
◆モノづくりにみる「真似て学んで広める文化」
中世で確立した日本の職人気質は、後の戦国の世にも見ることができます。
種子島に火縄銃が伝来したのが1543年。その後、刀鍛冶職人たちにより、製鉄技術や加工技術を駆使して、わずか1年後には火縄銃のコピーを完成させます。それが各地の諸侯にも伝えられ、30年後には日本の火縄銃保有量は、当時のヨーロッパの全保有量を上回る規模となります。
地道に技術を伝承し、伝統を守るだけでなく、未知の課題に果敢に取組む先進性と、成果を仲間と共有していく集団性を兼ね備えた日本の職人気質がここにも見られます。この独自の精神性もやはり、縄文のモノづくり精神が中世から戦国時代へと引き継がれてきたものなのです。
∴日本のモノづくり文化は、新しい技術をどんどん吸収し、応用してさらなる新技術を生みだす革新性をもっていました。そして西洋の秘伝志向と異なり、彼らにとっては技術を広めていくことに最大の意味と充足があったといえます。
●まとめ ~追求の土壌を生かしたネットワークの構築へ~
これまでみてきた内容をまとめると、縄文以来の日本のモノづくりには以下のような特徴があります。
1)日本人の縄文気質は対象への同化能力に優れ、とことん対象に肉薄し追求する土壌がある。
2)社会が大きく転換するとき(外圧が変わるとき)、人びとの期待に応える方向で変革が始まる。
3)それは、庶民の間から生まれ、真似て学んで広めるネットワークを形成する。
明治以降、日本人の意識の中には、お上に頼っていれば大丈夫という部分が少なからずありました。戦後も護送船団方式などと言われ、お上に頼って生産活動を行ってきました。しかしそれ以前は、庶民が自ら追求し生活の基盤を支えてきた歴史があります。
そして、冒頭に述べたように、いまや脱お上の意識から自給・自考への期待が高まり、追求を始めました。これまでみてきたように、日本人の中には縄文以来の追求土壌があり、あとはそれを繫げる(=真似て学んで広める)ネットワークさえ構築できるれば、外圧の変化に対応できると確信します。それは、今まで日本人が最も得意としてきた領域だからです。その鍵は普通の庶民が握っています。
みなさん、これからの社会をいっしょに考えていきませんか!!
投稿者 matuhide : 2014年02月20日 TweetList
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