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2010年03月18日

中央集権から封建制へ(武士の台頭)

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ8回目です。今回は、日本の中世の大きな体制の転換期であった『武士の台頭』について迫ってみたいと思います。

院政期、日本史上最大の「政と性の退廃・乱倫」を経て、新しい政治体制が生まれます。言うまでもなく武士の台頭、幕藩体制の登場。次回は、そこから始めます。

「政と性の退廃・乱倫」の背後にあった諸外国からの侵略圧の衰弱は、朝廷の武力を解体していき、結果、朝廷の腐敗体制・受領の暴走を招くことになります。

中央集権国家の最大の特徴は、最終的な徴税権は中央朝廷が持っており、地方の徴税官(地方官僚)も中央から派遣された者という所にある。国司(その中の受領)=地方徴税官は、徴収した田租を中央朝廷に送る任務を負っているが、その特権的な立場を利用して私服を肥やす国司(受領)も多かった。

では、王朝の腐敗体制でもあった受領の暴走は、どのような体制の変化をもたらしたのでしょうか

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【中央派遣団の土着化・略奪集団化による武士団の台頭】
受領の暴走は郡司(領民)との間で軋轢を強めていきます。
この軋轢は、場合によって受領と郡司(領民)の争いを生みます。この争いを治めるべく中央からは押領使・追捕使が派遣されることになります。
しかし、派遣された彼も中央集権国家の中では身分制度が固定されていた(私権獲得は封鎖されていた)中で、悪徳受領同様に私服を肥やすため、争いが終わった後も中央には帰らずに受領の蓄積した富を目当てに土着化、あるいは略奪集団化していくことになります。
『ミイラ取りがミイラになった』ということでしょうか…。

例えば、藤原純友も瀬戸内海の海賊の追捕に従い伊予掾となっていましたが、任期を終えても都に戻らずに土着して海賊の棟梁となり、海賊行為を行っていました。

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「お寺さんぽ Ver.03」より借用しました。

このような事件は、地方武士が平定しましたが、中央貴族の無力さ、朝廷の軍事力の低下が明らかになり、朝廷の支配力に陰りが見え初めます。

同じ頃東国では、受領(国司)の暴走に対する郡司(領民)の不満の声をまとめるように、同じく国司であった平将門は次々と東国八ヶ国の国衙を占領し、東国政権の樹立を決意します。そして、常陸、下野、上野の国府を攻略して、国司を追い払って関東一円を征服し、下総の猿島を都にして新皇と称し、律令国家の体制を整えていきます。

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こちらより借用しました。

このように中央派遣団や国司の反乱は中央集権の力の衰退を示すものであると同時に、地方武士の組織が強化されていく過程でもあったようです。中央及び受領たちが私権獲得に躍起になっていく中で、唯一力をつけてきたのが郡司(領民)の支持を得て、彼らをまとめあげた者だったのではないでしょうか。

また一方で、受領の横暴は、農村を疲弊させ多くの難民を生み、農村から都市へと難民の流入が進み、結果、都市の治安の悪化を招くことになります(参考:『貴族階級の豪奢と横暴がもたらした都市難民と寺社勢力の台頭』)。
都市の治安を維持すべく、軍事力の低下した朝廷は成長著しい地方武士を朝廷や貴族が利用するようになり、中央では貴族の身辺警護や、滝口の武士として宮中の警備を、地方では国衙の軍事を担当させるようになります。

平安末期に登場する平氏政権もこのようにして成立しました。
平氏政権の基盤は白河院政期に遡ります。白河上皇が権力維持のために平正盛の武力を必要としていたことと、平正盛は自らの所領の拡大・安定のために政治権力の後ろ盾が必要としていたという両者の思いが合致することによって成立し、結果、平正盛は東大寺や国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功し武士団を形成していきます。

つまり、地方だけでなく、中央においても武士の身分が確立してきたことになります。
外圧の低下→中央・受領の横暴を契機に武士の身分が確立し、朝廷の支配力の低下→地方武士だけでなく、地方そのものの台頭へとつながっていきます。

そして、皆さんもご存知の通り、朝廷の平氏政権に代わって、関東に独自の支配権を確立した源頼朝の武士政権が鎌倉幕府を討ちたてます。

次回は引き続き、郡司(領民)と武士の興り・台頭について迫ってみたいと思います。

投稿者 yoriya : 2010年03月18日 List  

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コメント

>1年間で狂犬病で命を落とす人が2万人を超えると言われるインドだから、注射せざるをえない。ところが野良犬を駆逐するという話はインドでは聞いたことがない。
>あくまでかまれる人が悪いので犬は不問である。動物や自然と共生しながらすごすインドでは動物にかまれないようにするというのがオウンリスクという考え方である。
 自然との共生という言葉が、日本でも流行っていますが、都合のいい自然だけを受け入れてる感が強い日本と違い、インドは自然の厳しさもそのまま受け入れているのですね。

投稿者 tama : 2010年6月8日 20:23

インドにとって自然とは美しいものではなく
厳しいものであり、厳然と存在するものであり、人智では決して逆らえないものなのでしょう。
毎年毎年氾濫と洪水を繰り返すインダス川の川辺で生きている人の自然観かもしれません。また、ヒマラヤという世界で最も豊かで厳しい自然を恵む地域の特性かもしれません。
tamaさんが言うように自然とは否も応もなく、そのまま受け入れるしかないものなのだと思います。
どれだけ金儲けに走ろうとも、インド人がある意味持っている謙虚さや大局観はそういうところから来ているのではないかと思ったりもします。

投稿者 tano : 2010年6月8日 20:42

> インド人はシステムを超えて、あるいはその外で、問題解決を図ろうとする > インド人はシステムを超えて、あるいはその外で、問題解決を図ろうとする < 興味津々です(@_@) 次回を楽しみにしてますね(^o^)

投稿者 一期一会 : 2010年7月1日 14:43

一期一会さん。コメントありがとうございます。
インドを探求して今、哲学のところを調べていますが、少しインドの罠に嵌ったみたいで混沌としています。
インドの哲学とは何なのか?わかる人は教えていただきたい・・・。という心境ですが、今しばらく粘ってみます。

投稿者 tano : 2010年7月3日 22:32

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