自考力の源流を歴史に学ぶ5 ~自然との和合が生み出す日本建築~ |
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2013年12月25日
女たちの充足力を日本史に探る3~時代が求めた女性天皇たち。
こんにちわちわわです。
これまで2回の投稿で、女性の充足力が集団を支えてきたことを明らかにしてきました。
今回は国の長として君臨した「女性天皇」に焦点を当ててみたいと思います。
日本では過去に8人10代の女性天皇が存在しました。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半の飛鳥時代~奈良時代に集中しています。その間、14代の天皇のうち、実に半数以上を占めていることになるのです。
◆歴代の女性天皇
1.推古天皇(第33代、在位592年 – 628年) – 第29代欽明天皇の皇女
2.皇極天皇(第35代、在位642年 – 645年) – 敏達天皇の男系の曾孫
3.斉明天皇(第37代、在位655年 – 661年) – 皇極天皇の再登用
4.持統天皇(第41代、在位686年 – 697年) – 第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后
5.元明天皇(第43代、在位707年 – 715年) – 天智天皇の皇女、天武天皇皇子の妃
6.元正天皇(第44代、在位715年 – 724年) – 草壁皇子の娘
7.孝謙天皇(第46代、在位749年 – 758年) – 第45代聖武天皇の皇女
8.称徳天皇(第48代、在位764年 – 770年) – 孝謙天皇の再登用
以後江戸時代
9.明正天皇(第109代、在位1629年 – 1643年)
10.後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年)
何故これほどまでに女性天皇が多かったのでしょうか?
これまで、皇位継承をめぐる危機的状況の中で、一時的な回避策として擁立された中継ぎ天皇たちであるという説が主流でした。果たしてそうでしょうか?
初代女性天皇 推古天皇が登場するまでの時代から紐解いていきたいと思います。
天皇は女性がいいと思った方↓↓ぽちっと!!
◆古墳時代-大型古墳に埋葬されているのは実に半数が女性
この円グラフが示すように、実に、大型古墳の主体部に単独で埋葬されている被葬者のうち、ほぼ半分が女性です。
熊本県の向野田古墳はこの地域で最大級の全長90mの前方後円墳ですが、その被葬者は女性であり、彼女の副葬品には武器類も大量に見つかっています。さらに、天皇の権威の象徴とされる「鏡、剣、珠」の三種の神器も埋葬されており、祭祀、軍事、政治の長として君臨していたことをうかがわせます。
◆女性君長の巫女的な役割
女王として最初に連想されるのは、やはり卑弥呼でしょう。
彼女は「鬼道に事へ、能く衆を惑わす」と記されているように、巫女的な役割を果たしており、その能力が評価されて女王に推奨されたのでしょう。神を祭る「斎主」は女性の方がふさわしいという古代人の発想があったのです。
人々に君臨する支配者は、男女を問わず宗教的な役割を果たさねばならず、初期の支配者は宗教的に卓越した人物が、その地位に推奨され、そうした流れの中で女性君長が出現したのでしょう。
このように考えると、33代から初めて女性天皇が誕生したことになっていますが、32代までの天皇が全て男性だったとは到底思えません。
記紀の史実はあくまで天皇家の正当性をでっちあげるために編纂されたものであり、その記録を鵜呑みにすることは出来ません。
恐らく、奈良時代までの天皇は男女分け隔てなく時代の求める能力に応じて登用されたと見てよいのではないでしょうか。
◆推古天皇の擁立まで
百済系の蘇我氏が仏教伝来をめぐり、古来の文化勢力である物部氏との戦争の末勝利し、権力基盤を確立しました。
推古天皇の前代の崇峻天皇は、当時の最有力氏族である蘇我氏系の天皇でしたが、大臣・蘇我馬子との間がうまくいかず、592年、蘇我馬子の配下の東漢直駒が、崇峻天皇を殺害するという大事件が起こりました。
この崇峻天皇崩御の後を受けて、蘇我馬子により擁立されたのが、日本で最初の女性天皇と言われる推古天皇です。
蘇我馬子は、このように女性天皇を誕生させて、天皇と蘇我氏の政治権力と聖徳太子の統治能力を、三位一体としてバランスをとることに成功しました。
推古天皇は、聖徳太子を皇太子、蘇我馬子を大臣とした体制により、36年に及ぶ治世を全うし、飛鳥時代という一時代を築くことに成功したのです。
◆皇極天皇(斉名天皇)-即天后の日本版と言われた女傑
女性天皇の力を表現する上で、この天皇の存在を抜きにしては語れません。
皇極天皇はこの時代の最強の天皇と言われながら出自は明らかにされておらず、謎の天皇とも言われています。皇極時代には各所で事業を起こし、またその神通力は高く評価されています。斉明天皇として再登板した以降も60歳を越える年齢ながら、蝦夷遠征など大和朝廷の力を拡大する政治手法を取っています。
一方で非常に心豊かで、心情を巧みに表現した和歌を多数残しています。
◆持統天皇 ―アマテラス大神のモデルとなった女帝
歴代女帝中最も政治的手腕を発揮した天皇といえば、やはりこの持統天皇でしょう。壬申の乱では夫大海人皇子(後の天武天皇)を支えて戦い抜き、その後は皇后となり夫君の天武天皇と共に政治に当たりました。女帝としてはもちろん、皇后としても歴史上稀な存在だったといえます。
持統天皇の夫君の天武天皇は、初めて神と呼ばれるようになった天皇であり、古事記、日本書紀の編纂や伊勢神宮や天皇祭祀の整備により、この時代に日本における古代天皇制が確立しました。
天武天皇崩御後は、その皇后であった持統天皇が即位し、その後を引き継ぎ、天武天皇の治世で残された国家政策を仕上げる役割を演じました。
結果、持統天皇は大宝律令、中央集権の組織作りを行ない、平城京を立ち上げた奈良時代初代の天皇であり、天武天皇よりもはるかに高い政治成果を残しています。
◆女性天皇は中継ぎではなく、時代が求める人材摘用だった。
この3人の女性天皇に代表されるように、女性天皇は単なる繋ぎではなく、巫女的な存在だっただけでもなく、男性にも勝る、政治的な素養も持ち合わせていました。
伽耶系、新羅系、百済系の豪族が権力闘争を繰り広げる状況下、より神通力や融和が求められる時代には女性天皇が、より武力闘争が求められる時代には男性天皇が即位したのでしょう。
このように、古墳時代から飛鳥・奈良時代までの集団の長は、男性優位という訳ではなく、状況により、求められる能力に応じて男女わけへだてなく登用されたと見てよいでしょう。
ところが、第48代称徳天皇以後、江戸時代まで女性天皇は姿を消します。いったい何が起こったのでしょうか?
◆征伐の対象となっていく女性君長
各地に残る風土記や古事記には女性君長の記述が残るものも在りますが、日本書紀からは一切姿を消します。さらに、これまで司祭的役割を担ってきた女性君長の記述は、時代が下れば下るほど、征伐の対象となっていくのです。
語られる多くの女性君長は中央集権に刃向う敵対者として史上に姿を現し、そのため誅殺の対象となり、しかも多くは「土蜘蛛」という蔑称を冠称されています。「神功紀」や「陸奥国風土記」に土蜘蛛朱を冠した女性君長が登場する他、「肥前国風土記」には土蜘蛛八十女が「常に皇命を拒み、降服を肯んぜず。ここに兵を遣わして撲滅す。」とか所伝が多数残るのです。
これは、残された文献資料が歴史的な勝利者となった天皇を中心とする中央集権の側が描き出したために生じた帰結でしょう。
縄文以来続く女性を君長としてあおぐ国を未開の国として差別し、天皇を正当化するための道具に利用されたのです。
◆政界から姿を消す女性たち。
奈良時代になると、大宝律令による法治国家の形態が整備されたことにより、女性ならではの充足懐柔路線の政治が通用しにくくなります。
さらに、これまでの皇位継承にまつわる豪族間の争いから、藤原氏(百済系)による支配が優位になっていきます。
この時代状況の変化から、除々に女性天皇を立てる理由が薄らいでゆきます。
平安時代になると、法治国家の制度が完全に定着し、藤原氏の一極支配が確立したことで、女性は政界から完全に姿を消します。
そして、宮廷に封じ込まれた女性貴族たちは、必然的に文学の世界にのめり込んでいくことになるのです。
投稿者 tiwawa : 2013年12月25日 TweetList
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