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2009年06月03日
弥生時代の戦いの痕跡を追って~吉野ヶ里遺跡から
こんばんは。今回は、弥生時代の北部九州における戦乱の状況をおさえる上で、今回は九州佐賀県にある吉野ヶ里遺跡にスポットをあてて紹介したいと思います。
<吉野ヶ里全景>
まず、吉野ヶ里の概略の歴史ですが、弥生前期に丘陵地に点在していた「ムラ」が、弥生中期に丘陵地帯を一周するほどの環濠を伴った集落として発展し、弥生後期には環濠が拡大二重化し最盛期を迎えますが、古墳時代に入ると伴に、消滅します。
この巨大集落で、主に甕棺の中から埋葬された当時の人々が骨となって発掘されますが、その中には、首のないものを含め、戦いによって負傷したと推定されるものが含まれています。
<首ない人骨>
これらの人骨は、一体いつごろの人たちなのでしょうか?
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●人骨から類推される吉野ヶ里での戦乱の時期
これらの人骨は、いつ頃、甕棺に納められたかによって、おおよその年代が推定できます。甕棺からの編年によると、紀元前100~紀元100年当たりになるようです。
・KⅢa式:銅剣、石剣:左大腿骨に刺入
・KⅢa式:男性、首なし
・後期初頭:男性、成人:右大腿骨に刺入、右腸骨に鏃による傷跡
(KⅢa式は紀元前100~50年頃の甕棺の形式)
<吉野ヶ里で発見された主な甕棺と年代(編年:~式)、その中に入っていた武器や人骨>
<発掘された甕棺>
●九州における戦いの段階
九州のにおける弥生時代の戦いは、第1段階:農業開発期(紀元前5~3世紀)、第2段階:「国」成立期(紀元前2~1世紀)、3段階:「国」相互期(「国」の防衛及び国・国の連合主導獲得のための戦い))(紀元前1~紀元3)、4段階:国と国の連合化とより広範囲での他連合との戦い)(紀元3~)の4段階に分けられます。
<弥生の集落と環濠より>
この人骨が発見された時期は、第2段階及び第3段階の初めに当たり、環濠が作られ、吉野ヶ里が、拡大していった時期と重なります。つまり吉野ヶ里が拡大し、周辺集落と摩擦が激しくなった時期といえるでしょう。
(ちなみに倭国大乱があったされる時期には、人骨などの戦乱の証拠といえる遺物は発見されていませんが、第3段階後半から4段階にあたります)
●吉野ヶ里に住んでいた人のルーツは?
では、このように甕棺から発見される吉野ヶ里の人たちは、一体どこからやってきた人たちなのでしょうか?
やはり、ヒントは甕棺にあります。
以前、このブログでエントリーされた記事を抜粋・紹介します。
・甕棺の源流は中国に見られます。
・中国では甕棺に子供を葬る風習が全土に広まりましたがその年代は放射性炭素による測定の結果紀元前4000年頃と考えられます。
・同2500年ごろには子供だけでなく、成人も甕棺に葬るところもでてきました。この頃のものは形(合わせ甕棺)が北部九州のものとそっくりのものもあります。
・中国全土ではその後、この風習は消滅するようです。その理由としては時代と共に北方系の木槨・石槨・石室等の墓制が浸透したことによる影響だと考えられます。
・これまでにわかっている限りでは、最後まで(戦国時代終わりごろまで)甕棺の風習が残っていたのは長江河口地域です。
・長江河口地域での甕棺の風習が見られなくなる頃から北部九州で甕棺の風習が始まったと考えられます。
・それから遅れて韓半島南部でも甕棺の風習が始まることを発掘結果は示しております。
・甕棺の風習がはじまる正確な年代はわかっておりません。一応、北部九州では紀元前2世紀末ごろ、韓半島南部では4世紀ないし5世紀とされております。
・韓半島の北部からは甕棺墓は全く見つかっておりません。このことから考えて韓半島南部の甕棺の風習が、古代中国から韓半島の北部を経由して伝わった風習が時間を経て残ったものである、とは考えにくいようです。
・以上のことから甕棺墓は長江河口地域→北部九州→韓半島南部へと伝わったと考えるのが一番理解し易いのではないでしょうか。
<縄文と古代文明 縄文時代 大陸から渡って来たお墓 より>
とあるように、中国の長江河口地域からの人々の可能性が高そうです。
また、吉野ヶ里では、夏至と冬至の日の入りを結んだラインや主祭殿や祭壇を通るラインを軸として集落が形成されています。このような軸線を意識した集落作りも、中国からの影響によるところが大きいとされており、この点からも中国との結びつきが強いことが伺えます。
●後期に中国系から朝鮮系に入れ替わった吉野ヶ里
ところが、前期・中期に発展した環濠が、後期後半になると消滅してしまいます。また、前期から中期にかけて最盛期だった甕棺も衰退していきます。このことから推測すると、後期に入り、それまで吉野ヶ里の中心だった人たちが、別の集団の支配下に入り、その中心的な役割を担う人々が入れ替わった可能性が考えられそうです。
では、吉野ヶ里を支配した人たちはどのような人たちだったのでしょうか?
ヒントは、発掘された絹の変化から読み取れるようです。
>吉野ヶ里遺跡の甕棺から出土する絹は、弥生時代前期初頭のものは四眠系蚕(淮河以南の華中・華南の蚕)で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半から現われる。
<倭国と日本国の関係史より>
<発掘された絹織物>
吉野ヶ里は、当時の北部九州における絹の流通拠点だったという説もあるようですが、絹の様式の変化から類推すると、最初、中国系の人々がその主流をになっていたところに、中期後半ぐらいを境にして、朝鮮系の人々がやってきて、絹生産の流通に関わっていくようになった。
そして、後期になると、中国系と朝鮮系の人々との勢力関係が逆転し、後期後半には、吉野ヶ里は、朝鮮系の人々の支配下に完全に入ったと考えられなくはないでしょうか。
この朝鮮系の人々へと入れ替わった時期は、ちょうど倭国大乱といわれる時期あたりともオーバーラップする。はたして、同地域での戦乱を経た後の交代だったのでしょうか?
この時期は、殺傷痕を伴った人骨等、戦乱の後の証拠ともいえるものは、残念ながら発見されていないようです。しかし、そもそも吉野ヶ里から発見された人骨は主に甕棺からの発見であり、もし仮に倭国大乱とよばれる戦乱があったとすると、想像の域を出ませんが、吉野ヶ里での戦乱は、朝鮮系の人々と中国系の人々との争いだった可能性もあるのではないでしょうか。
この時期の戦いの痕跡が発見されないのは、負傷戦死した人々の甕棺への手厚い埋葬が不可能だったためであり、また、その後風習のことなる朝鮮系の人々に置き換わったたとためとも考えらなくもないのではなでしょうか。(但し、戦乱は大掛かりなものではなく、物的証拠が残らないほどの規模の戦乱(≒小競り合い程度)だった可能性が高いと思う)
その後、環濠が埋め立てられたことからも、朝鮮系の人々による吉野ヶ里を含めた周辺地域の勢力圏の確立に伴い、防衛としての環濠が不必要になった、逆に言えば、環濠が埋め立てられたことが、同周辺地域(北部九州)が、朝鮮系の人々の勢力圏として確立されたことを意味しているといえるのではないでしょうか。
このような歴史をたどった吉野ヶ里も、古墳時代の始まりとともに、消滅・離散していく。
古墳時代における吉野ヶ里の衰退の原因は、はっきりとしていないようですが、同地域を支配していた朝鮮系の人たちが、この場所を捨て去り、別の場所に移り住んだからではないでしょうか。
そうだとすると、彼らは一体何処にいったのでしょうか? 想像力を膨らませて考えると、それは、東の地域、つまり近畿圏への移動とは考えられなくはないでしょうか。古墳時代以降、近畿圏、ヤマトを中心に日本の国づくりが始まる。このヤマト中心の国づくりに、同じ朝鮮系の人々としてヤマトに移り住み、その一翼をになったとは考えられなくはないでしょうか。
<吉野ヶ里関連年表>
P.S.写真は全て 「情報処理推進機構:教育用画像素材集」 よりお借りしています。
投稿者 yuyu : 2009年06月03日 TweetList
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