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2007年06月29日

最古の戦争犠牲者は縄文人だった

😀 くまなです
前回、最古の戦争犠牲者の紹介をしました。今回は、それが縄文人だった、という話しです。

この熟年男性は、骨をみると、列島の土着の、いわゆる「縄文人」の体つきをしている。おまけに、歯には、縄文時代以来の古い因習である抜歯のあとがうかがえるという。

「縄文人の体つき」というのは、いわゆる低顔、低身長のことです。
抜歯については、縄文晩期には「叉状研歯」なるものも出現しています。これについてはbunchanの叉状研歯(しゃじょうけんし)って!?」をご覧ください。

身も心も縄文人のようにみえる男性に突きささった朝鮮系の武器。渡来人が、武器を振りかざして縄文人にせまる状況が目にうかぶようだ。事実、そういう場面もあったにちがいない。

さらに、この男性が埋葬されていた墓は…
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しかし、この新町遺跡の男性は、縄文人の体質や因習を引きずりながら、その墓は、支石墓とよばれる、石を組みあわせた朝鮮半島ふうの墓標をもつ集団墓の中にあった。かれは、朝鮮半島ゆかりのあたらしい葬儀の習わしを取りいれた集団に属していたのだ。

↓新町遺跡の支石墓(展示)
sima_sinmati.jpg
写真は九州絶景選さんからお借りしました。
※支石墓:新石器時代から初期金属器時代まで、世界各地で見られる巨石墓の一種。東アジアの支石墓は、3500年前頃に遼東半島付近で発生し、その周辺へ広まった。2500年前頃、朝鮮半島へ伝播し、遺構は半島のほぼ全域で見られ、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。縄文晩期は、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられてる。
hayamajiri28.jpg
画像は邪馬台国大研究さんよりお借りしました。

それから、かれの棺の下に埋められた若者の頭部である。これは、この集団が、戦いのなかで敵の首を切断するという習慣をもっていたことのあかしだろう。そのような慣習は、縄文社会にはなかったことだ。
こうしてみてくると、縄文以来の土着の人びとからなる集団もまた、渡来人の集団と接触することによって、稲作をはじめとする新しい生活様式や行動原理や慣習を、短いあいだに取りいれていた可能性が高い。「戦いの思考」や、それにともなう武器や戦術、戦場での習わしなども、それに含まれていただろう。そのようにして、かれらも縄文の伝統のいくつかを忘れ、また一方の渡来人の集団も世代交代とともに故郷の伝統をうすめ、ともに日本列島弥生時代の農耕民として、溶けあっていくことになる。

(引用は松木武彦「人はなぜ戦うのか」より)

投稿者 kumana : 2007年06月29日 List  

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