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2009年04月24日

神仏紛争(物部VS蘇我戦争)~その実態は?~その2

その1の続きです。
その1までは、葛城氏の滅亡から、仏教公伝までを書きました。
今回は、仏教公伝以降、いよいよ紛争の実態にせまります
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<物部守屋VS蘇我馬子>
やがて、欽明天皇が亡くなり、尾輿、稲目もほぼ時を同じくして亡くなり、敏達朝がはじまった。その時、物部守屋が大連に、蘇我馬子が大臣に任じられた。
そこで、馬子は物部氏の下に甘んじていた父(稲目)の立場にあきたらず、物部氏をしのぐ勢力を得ようとした。しかし、彼は当初、物部守屋と正面から対立することは避け、あくまでも、控えめに振舞いつつ、自家の力を伸ばしていった。
馬子は徐々に王族の中にも、仏教を広め、「屯倉」を通じて、仏教崇拝の立場から、渡来人をも掌握しつつあり、馬子の人気は朝廷の内外に広がっていき、“仏教や大陸の文化に通じた蘇我氏なら、倭国を良い方向に導いていくだろう”といった声が強くなっていった。
<仏教弾圧の加速化>
このため、守屋の中に、馬子に対する嫉妬心と、いづれ政権を奪われるのではないかといった恐れが芽生え始め、最後の政敵「蘇我氏」を討つべく、廃仏に踏み切ることとなる。
廃仏が加速するにつれて、天然痘の大流行が起こり、守屋は王宮に参上して、「今、国中に疫病が広がり、今や倭国の民がことごとく、死に絶えかねない勢いです。その原因は、ひとえに、蘇我馬子が仏を祀った事にあります」と奏上した。
そこで、敏達天皇は、「仏法を断て」と命を下した。
これを以って、守屋は寺を焼き、仏像を川に流し、3人の尼を捕らえた。
もしかしたら、この一連の流れ(天然痘流行~廃仏)は、守屋が仕組んだ可能性もある。
<諸氏族の物部離反>
このように、物部氏による廃仏が激しくなるにつれて、今まで、仏教容認のため、軍や武器を提供していた物部側の渡来人たちが、反旗を翻すことになる
さらに、朝廷の内外の豪族(ほとんどは一度、物部に失脚させられている)の巨勢、葛城、大伴、平群等も蘇我氏側にまわった
こうして、軍事力で権力をほしいままにしていた物部氏は、当初は蘇我の軍を圧倒していたが、豪族、渡来人の相次ぐ離反に伴い、弱体化、孤立化し、最後はあっけなく敗北することになる
この紛争の逸話で、厩戸皇子が四天王寺に誓願を立てたことにより、形勢が逆転し、蘇我氏が物部氏に勝利したといった伝説が残されているが、これは、四天王寺を建てる約束をすることで、渡来人を糾合し、戦力拡大に成功したことを表しているのではなかろうか。
<結句>
以上見てきたように、神仏紛争とは、神道と仏教の宗教対立ではなく、権力欲と嫉妬に取り憑かれ、一方的な廃仏をして、蘇我氏を倒すことのみに執念を燃やした結果、かえって周りが見えなくなり、正常な判断もできなくなったことで、気がつけば、味方はほとんどなく、四面楚歌状態となった物部守屋の自滅への戦争であったと言えるかもしれない。
この争いを最後に、飛鳥時代では、大きな争いは起こらなくなる。
おそらくは、この戦争の惨状を目の当たりにした厩戸皇子が、この争いの反省から、争いのない倭国へと導いていったのではなかろうか。

投稿者 jomon10 : 2009年04月24日 List  

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コメント

 初めてお邪魔します。
 先日大分県の安心院町まで農家民泊(グリーンツーリズム)の勉強に行ってきました。宮田静一さんというリーダーの方から一時間半も話をお聞きすることができました。
 その中で、ドイツなどヨーロッパ諸国を訪問して農家民泊を学んできたと言われました。ヨーロッパは文化がかなり成熟しており、行って泊まってみるのが一番勉強になるとも…
 知らない人のうちに泊めてもらうという伝統と習慣は、キリスト教の巡礼や、十字軍の遠征などに起源がありはしないのでしょうか?そのへんどうなのか教えてください。

投稿者 田島敬一 : 2009年6月5日 22:35

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