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高地性集落ってなに?

農業生産(稲作)には適さない山地の頂上や斜面に形成された集落を「高地性集落」と呼びます。
高地性集落の本当の姿はいまだに良く判っていない部分が多いのですが、「戦の備え」であったと見られています。

弥生の中期 北部九州から瀬戸内沿岸の高台や瀬戸内海の島に出現し、その後規模を拡大して 日本各地に伝播し、大和の勢力が強くなると共に消えていったようです。

この高地性集落の出現の変遷を見ると、鉄の輸入と何らかの関係があったようにも思えます。

日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
鉄を制するものが天下を制す! [1]

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高地性集落は平地より数十mも高い山頂部や斜面に形成されており、水田耕作の始まった弥生時代においては、不向きな場所であったこと予想されます。
また、礫や石鏃などの武器やのろし台などが出土することからも、高地性集落は平地の集落と連携して戦さに備えた集落と考えられています。

ちょうどこの弥生中期は、弥生の人口が急速に増え、水田耕作が安定してその生産性を高めてゆく時代であり、朝鮮半島からもたらされる鉄器もその実用性を増してくる時代でした。

以下「高地性集落」 [4]より抜粋し引用します。

高地性集落は低地を見下ろし、また、近辺の高地性集落の見える位置に作られていることが多い。
したがって、眼下の情勢を見張るだけでなく、連絡にも便利なようにできている。
高地性集落にはその最高地点に焼け土の跡が発見されているが、これはノロシ台であると考えられている。
瀬戸内海沿岸地域の高地性集落を使って北九州から大阪平野までノロシを使った実験をした結果、わずか数時間で伝達できることが判明した。

このように、高地性集落は情報伝達基地のような役目を担っていたものと思われている。
場所によっては集落内に炉と思われるようなものが確認でき、中で武器の製造を行っていたとも考えられている。

また高地性集落は機能的には、防衛主体の集落と農耕主体の集落、さらにそれぞれを複合的に組み合わせた集落に区別できる。

下の分布図は、主に防衛的機能の高地性集落の分布変化である。










文化小期高地出現期分 布 地 域
縄文晩期第1期北西部九州に高原性集落出現

Ⅰ期第2期瀬戸内北岸に高地性集落出現
Ⅱ期第3期北部九州から瀬戸内に高地性集落出現
Ⅲ期九州、山陽、四国、畿内、州部、関東地方にかけて高山性、
高原性、高地性集落出現、特に瀬戸内に密度が高い
Ⅳ期第4期中部・東部瀬戸内、四国、畿内、紀伊水道東岸にわたる
畿内系土器の分布圏に分布
Ⅴ期第5期中部瀬戸内から畿内にかけての地域と紀伊水道の東岸に分布
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九州、山陽、四国、畿内、中部、関東、東北地方に出現
第3期に似た分布を示す
古墳前期

古墳中期
古墳後期

第6期

西日本にごくまばらに分布
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南部九州に出現








【第Ⅲ期~第Ⅴ期の防衛的高地性集落分布図】
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また、高地性集落を平野や海を広く眺望できる場所に立地しており、瀬戸内、大阪湾など海からの侵入に備えていたことが分かります。

つまり、高地性集落の立地や、鉄の輸入を行っていた時代背景(鉄を制するものが天下を制す! [1])を考えると、鉄をめぐる略奪が日常的に行われており、それらを防ぐために水田耕作には不向きな高地に集落を設ける必要があったのではないでしょうか。

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