2009年1月20日
2009年01月20日
「関の東」を「関東」と言った
この間、東国の歴史を追及していますが、その背景にある問題意識としては、
①武士階級の隆盛とともに権力中枢が、西から東へとダイナミックに移行していくが、その基盤は何だったのか?
②そもそも武士に縄文人気質は受け継がれている?
このあたりを探っていきたいと思っています。
追求を行う上で、今回は古代の関東史をダイジェストしておきたいと思います。
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投稿者 naoto : 2009年01月20日 Tweet
2009年01月20日
鍛冶工房の出土は雄略天皇の富国強兵・殖産興業を物語る。
今回は珍しく、地味ネタです。
大和王権の鉄器工房が、大阪市平野区の長原遺跡という
マイナーな遺跡でみつかったという記事です。
(上)長原遺跡で出土した5世紀前半の鍛冶工房跡(大阪市平野区で)(下)見つかった鉄滓=大阪市文化財協会提供
YOMIURI ONLINE
大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が、市文化財協会の調査で出土した。百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。
工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝を設け、排水などに利用。溝からは、製造過程で出た3センチ大の鉄滓(てっさい)も発見された。含まれる炭素が少ないことなどから、高温で加熱して繰り返し折り曲げる方法で製造したらしい。
百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3~4世紀)などでも同様の溝が確認されており、同協会は「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して生産したのだろう」としている。
というわけで、地味ネタはまだまだ続きますが、
ここらで豆知識を少し。
平野区に「喜連瓜破」(きれうりわり)という地名があります。
これって、あきらかに当て字ぽい、しぃー、発音も外国語ぽい。
平野区のHPには「喜連→くれ=呉」といとで、呉の国の職人が住み
ついていたと書いてあります。
平野区(大きく捉えれば河内)界隈には大陸や半島のひとが集落を
形成していたと思われます。
引き続き地味ネタは続きますが、地味好きのアナタ!
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投稿者 urara : 2009年01月20日 Tweet