- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

「関の東」を「関東」と言った

Posted By naoto On 2009年1月20日 @ 10:47 PM In 未分類 | 2 Comments

この間、東国の歴史を追及していますが、その背景にある問題意識としては、
①武士階級の隆盛とともに権力中枢が、西から東へとダイナミックに移行していくが、その基盤は何だったのか?
②そもそも武士に縄文人気質は受け継がれている?
このあたりを探っていきたいと思っています。
追求を行う上で、今回は古代の関東史をダイジェストしておきたいと思います。
読んでみようと思った方は応援お願いします :roll:
     Blog Ranking [1] にほんブログ村 歴史ブログへ [2]
 


関東地方に当る [3] 《引用》

関東地方に人が住みはじめたのは旧石器時代であった。
群馬県の岩宿遺跡からは、関東ローム層から旧石器時代の物とされるナイフ形石器が発見されているが、関東ローム層の酸性土壌のために、人骨などは見つかっていない。

縄文時代の関東地方は温暖な環境に恵まれ、日本で最も人口の多い地域であった。
縄文海進の時期には、現在の茨城県中南部の低地、千葉県北部の下総台地以外の地域、東京23区の東部、埼玉県の東南部は海であった。
内陸に入り込んだ遠浅の海はよい漁場となり、現在海岸から離れている地域にも加曽利貝塚を筆頭に巨大貝塚が形成された。

五畿七道の交通網について、関東には畿内から陸奥国に伸びる東山道と、同じく畿内から伸びて三浦半島から海路房総半島に出て香取・鹿島に向かう東海道が整備されたと言われる。
古代よりヤマト王権と関東の間に交流があったと言われる。
その根拠の一つは、関東にも前方後円墳が存在すること。
そして何よりも7世紀末、下野国国造である下毛野氏一族の下毛野朝臣古麻呂が藤原不比等たちとともに選定した律令制(大宝律令)が導入され、大和朝廷の誕生に関東の勢力も大きく関与したことである。

古代は朝廷の支配に属さない「まつろわぬ(逆らう)人」が住む未開地とされ、東日本(関東から東北)や北海道までの地方に住む住民は「蝦夷」(えみし)と呼ばれたという。しかし、以上の考え方は神代の後に起こった勢力による関東の定義であり、それ以前から神代文字に象徴される文化国家が関東の地にも存在し、衰退あるいは後発勢力に融合し神話化したとする説もある。

『宋書倭国伝』の武の上表文に、のちの雄略王の祖先が「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を征すること六十六国」と記されていることから5世紀頃の関東地方には、国と認識されるものが複数存在したことが記されている。

関東南部の旧入間川(荒川)~旧荒川(元荒川)~旧利根川(古利根川)~旧渡良瀬川(江戸川)~毛野川(鬼怒川)に至る地域は、古代は低湿地帯であった。
従って、概して当時の関東はこの低湿地帯の北部にあたる毛野川流域地域(毛野国)とその南部地域(无射志国)に分かれていたと考えられる。
毛野国は、筑紫や吉備に比肩する大国であったといわれる。
奈良時代、下毛野氏の氏寺であった下野薬師寺は、奈良の東大寺、大宰府の観世音寺と並ぶ三戒壇に指定されており、この点からも下毛野氏が大和朝廷との関係において高い地位にあったことが伺える。

一方、上総国・下総国・安房国の房総半島は総(ふさ)と呼ばれ、『古語拾遺』によると、四国から渡来した忌部氏が開拓したという。
これらの諸国を一括する語が「吾妻」である。
記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。
その傍証として、天武10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは上毛野君三千であった。

なお、上総国・下総国・常陸国には、阿波忌部氏に続き神八井耳命の血を引く肥後国造の一族である多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、鹿島神宮を建立し氏神されたという鹿島の元本宮伝承などが存在する。
また、香取神宮もこの際に出雲系の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとする伝承がある。

『梁書』などの「扶桑國」「女國」、『旧唐書』に登場する「毛人國」、唐代の漢詩に見える「扶桑東更東」といった地域を関東に比定する説がある。
稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文中の「大王」も、畿内ではなく関東にいた首長を指すとする立場(古田武彦、井上秀雄、鶴岡静夫ら)もある。
太田天神山古墳のような巨大古墳や、金鈴塚古墳のような豪華な副葬品を持つ古墳が築造された。
このように、関東地方は、古墳時代には、畿内に比肩しうる王権を確立していたとも考えられている。

律令制の五畿七道において、「関東」は、京の防備のために設けられた東海道の伊勢国の鈴鹿関(鈴鹿峠)、東山道の美濃国の不破関(関ヶ原)、北陸道の越前国の愛発関(愛発山、あらちやま)の三関から東の全域を指した。その中でもとりわけ、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」と「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」が、「関東地方」に当たる。
陸奥国(東北地方太平洋側)との境には、白河関と勿来関が設置された。

「関東」というと現在の都市圏=「関東地方」をイメージしてしまいますが、当時は、まさに「関の東」=「関東」だったのですね。
このあたりは混乱しないように追及していきたいと思います。


Article printed from 縄文と古代文明を探求しよう!: http://web.joumon.jp.net/blog

URL to article: http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/705.html

URLs in this post:

[1] Image: http://blog.with2.net/link.php?538666

[2] Image: http://history.blogmura.com/in/023841.html

[3] 関東地方に当る: http://www.shizu000.net/index.php?UID=1223884124

Copyright © 2014 縄文と古代文明を探求しよう!. All rights reserved.