ユダヤ人全滅思想の出所。 |
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2009年01月03日
縄文ワールドⅡ 宮城松島里浜貝塚漁労具に見る縄文の巧み
○今回は縄文人の巧みの技を景勝で有名な松島湾に臨む里浜貝塚に見てみます。
「里浜貝塚は縄文時代前期初頭(6000年前)から弥生時代初頭(2000年前)にかけて、4000年間、宮戸島里浜にムラを作り生活していた人々の残したものです。その大きさは東西約640m、南北約400mと全国でも最大規模の貝塚です。ここには、縄文人の使った、土器、石器、骨角器や食べた動物、魚の骨、貝殻等が多数残されております。」
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○里浜貝塚の断層です
○釣り針と銛です。右上端にある釣り針は製作途中ですが、骨角に穴を明けながら創る製作の過程が分かります。大きさは8センチぐらいのものもあり、かなり大型の魚も釣っていたようです。
○ヤス(魚を突く道具)
○刺し具、突き具
○鏃(やじりですが魚を取るときにも使ったようです)、根挟(二股になっているところに鏃を差し込んで使うためのもの)、弭(何に使ったのか分かりません)
○鉤先(魚を上げるときに引っ掛けるためのものでしょうか?)
○製塩土器(海草についた塩水を天日に干し、濃くしたものを土器で煮詰めたようです。内側は研磨して漏水しないようにしてある)
○垂飾、貝輪(装身具)
※里浜貝塚のほかにも北上川下流の沼津貝塚(縄文後期末)でも見事な骨角製品が見られます
「顔面付き骨角製簪(カンザシ)」
○同じく沼津貝塚の巧みの技
投稿者 ryujin : 2009年01月03日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2009年1月27日 21:17
tanoさん
>そういう意味では北京原人同様に日本原人がいる可能性は十分にあると思います。
この辺は、今後もデータを様々な切り口でデータを集めることが必要ですね。
特にこの辺は、未解明な時代でホントにまだまだデータが足りないって感じがしてます。
投稿者 さーね : 2009年1月29日 21:09
日本人の渡来経緯はDNAを調べれば解明されるはず。
人類の発生の地が分かっているくらいだから、日本人の渡来の波が何波だったかくらいは簡単に解明できるはずだ。
投稿者 根保孝栄石塚邦男 : 2011年4月7日 03:27
日本海はかつては大きな湖だったと言われています。
地図をよく見ると日本海の上と下で大陸が繋がっていたことがわかります。
長い日本湖の時代には中国側の海岸同様に南側に相当する日本海沿岸にも人や動物が集まっていたことは想像できますね。
そういう意味では北京原人同様に日本原人がいる可能性は十分にあると思います。