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2007年01月27日

縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした

縄文人の海上航海の道具である丸木舟は、現在、150例以上発見されています。
 三内丸山遺跡では、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡が見つかっています。
 特に縄文時代の大集落跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが 巨大なヒスイ の珠だ。 ヒスイは青森では産出されずおよそ500kmも離れた新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。 黒曜石 を原料とした石器類も多数出土しているが、黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきている。
 また、横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が伊豆大島で住居跡とともに大量に発見されたり、横須賀市の久里浜伝福寺裏で見つかった丸木舟は一緒に紀伊半島方面の土器も見つかっています。
 これらから縄文人が海を使って広範囲で盛んに交易していたことが分かり、海人として高度な航海技術を身に付け海洋(黒潮)文化を担っていたことがわかります。
縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。もっと広範な交易活動は現在幾つかの説が発表されています。
「縄文人の大航海」 を参照して下さい。
このような広範な活動を支えた「縄文の海洋技術」はどのようなものなのでしょうか。
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 縄文時代の遺跡から出土した丸木舟は全てくり舟である。くり舟は一本の木をくり貫いて作られたものである。舟底部からの高さはせいぜい1mであり、これでは外洋航海に適した構造をもっているとは言いがたい。積載能力も限られており、数人の人間と数百キロ程度の荷物しか運搬できなかったものと思われる。
 くり舟の積載能力と外洋航海の可能性を高めるうえで、どのような技術が用いられたと考えられるだろうか。
 第一は、舷側板(フロート) をくり舟に継ぎ足して波の影響を軽減する方法である。舷側板を接合する方法には、底部の板と舷側板に孔を開けて紐やロープで固定する方法が考えられる。舷側板が船底部に着装されていたとすれば、木に孔が開けられていたはずである。舷側板を装着しても、水漏れ防止が重要な技術となる。
 北海道アイヌが三丹交易に用いたイタオマチップと呼ばれる船では、水漏れ防止用に淡水産の水草がパッキングとして利用された。鳥浜貝塚からは既に漆を塗った木製品が出土する。漆自体が防水・防湿効果をもつので、船の防水に利用された可能性がある。三内丸山ではアスファルトが利用されていたので、案外船に用いられたかもしれない。
 第二は、連結法(双胴船)である。くり船を二艘ないしそれ以上横に連結して安定させ、更に上部に甲板状の板を置くことによって飛躍的に積載能力を高めることができる。この場合も船を連結させるために、船同士を固定するための技術が必要となる。甲板用の平板の製作が困難であっても、船を連結する技術はあったのではないか。いわゆるダブル・カヌーの発想である。連結した船から予想されるのが言うまでも無く筏の存在である。丸太や竹材を紐などで連結した筏による海上移動が行われた可能性が大変大きい。くり船や舷側板をつけた船などは、波の水抵抗によって破損したり真二つに割れることがある。しかし、筏は波のエネルギーを見事に吸収する柔構造を持っている。
そして、航海術は黒潮の流れに乗って縄文人が列島に漂着した ように、その動きを注視した末に獲得したものと考えられます。また長期航海を可能にしたのは土器だと思います。活発な火山活動に苦しまされながらもその様子を注視した結果発見した土器を使い、食料や水を大量に長期間保存したのではないだろうか。
———- By mukai ———-

投稿者 mukai : 2007年01月27日 List  

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