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2007年11月15日

生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観

:D くまなです。
今回は、縄文人の末裔と云われるアイヌの思想から、縄文人の世界観に迫ってみようと思います。
naotoさんが「ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立」のなかで“沖縄の人々やアイヌこそ、渡来系との混血が少なく、近縁性を保ち続けたようです。やはり、彼らこそ縄文人の系列といえるかもしれませんね”とおっしゃられているように、アイヌの人々が縄文人の文化を色濃く残していることは間違いないと思います。(ただし、アイヌは沖縄とは出自が違う北方系縄文人を継承していると考えられます。)
今回はアイヌの文化のなかでも、彼らにとって重要な儀式である「イオマンテ」に注目してみます。
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アイヌ民族博物館より)

アイヌの世界観を知るうえで分かりやすいのは熊送り、イオマンテでしょう。イオマンテの「イ」は「それを」、「オマンテ」は「送る」ということですので、「イオマンテ」は「それを送る」という意味になります。では、「それ」とは何かというと、熊の魂です。どこへ送るかというと天へ送るのです。つまり、イオマンテは、天へ熊の魂を送る祭りというわけです。
 アイヌの人たちの考えは、熊は死ぬとその霊が天に昇ってい。熊だけではなく、人間も、その他の動物も、植物さえもが、死ぬとその魂は天に昇っていくのです。すべてのものの魂は死んで天に昇り、神になると考えているのです。

(中略)

 さて、アイヌの世界観では、死んでいた魂は天からまたこの世に戻ってきます。おもしろいのは、熊は、天の世界で人間と同じような家族関係を営み、人間の姿で生活しており、この世にくるときに、熊に仮装してやってくるのです。なぜこの世にやってくるのかというと、熊はこの世の人間に「ミアンゲ」(土産)をもってくる。だから熊は「ミアンゲ」をもってこの世にやってきた「マラプト」(客人)であるという。
 「ミアンゲ」は文字通り「身をあげる」です。つまり、熊はおいしい身(肉)や生活に役立つ毛皮をもってやってきた「お客様」という考え方です。したがって、人間にとって都合のいい解釈なのですが、おいしい肉や毛皮をいただいたあとは、丁重にその魂を天に送り返さなければならないのです。これが熊送りの思想です。

(中略)

 一般的に、熊送りする熊は、仔熊をとってきて育て、ちょうど肉がおいしくなったところで殺して魂を天に送ります。これは残酷なようですが、何も驚くことはないと思います。
 たとえば縄文時代、食べごろの貝をとっては食べて葬ったわけです。せっかく身をもって「みやげ」をもってこの世にきたわけですから、その意思を重んじなければ、かえって失礼にあたるというものです。貝塚もまた、貝の魂を天に返した跡でありましょう。貝塚は単なる遺跡ではなく、貝の墓なんです。葬って霊をあの世に送る。そうすれば、貝がまたやってくる。そういう循環型の世界観があったのです。ある意味、非常に科学的といってもいいと思います。

 ところで、熊を天に送るときには、たくさんのおみやげをもたせます。お酒・鮭・団子などで、天に帰った熊は、そのみやげもので、仲間を呼んで祝宴を開きます。その熊は「私は人間に大事にされた。だから無事にここに帰ってこれたのだ」というと、仲間の熊が「そうか、それはよかったな。それでは来年は俺がいこうか」ということになり、翌年も熊がどっさりとれるというわけです。
 ですからこれは、熊送りの祭りであると同時に、収穫の祭りでもあるわけです。だから熊送りのときに「もう一度帰ってこい」という言葉があるのです。これは熊だけではなく、人間も他の動物についても言える、アイヌの人たちの基本的な考え方なのです。

(たちばな出版「縄文人の心」-縄文文化・縄文の心を語る-梅原猛より)
‘循環している’という考え方は、人類が精霊への同化の過程で見出したであろうことは容易に想像できます。季節や一日の周期、太陽の移動、植物の成長などから精霊の意志を掴む過程で発見したものだと思います。縄文人やアイヌ人はそれを継承してきたわけです。
また、人間自身についても、その生と死を見るだけでも循環しており自然と一体(一部)であることが理解されていたはずです。死者を埋葬したり、亡くなった胎児や乳児を甕に入れて住居の入口に埋めたり(ex.逆位底部穿孔埋甕)することでもその考え方がわかります。
つまり、人間も自然の摂理に包摂された存在であり、全体との調和の上で生かされているということを知っていたのです。
 しかし人類は、文明を築くために、そのような考え方を捨て去ります。その結果が現代の環境破壊であり、その必然としての肉体破壊に他なりません。現代人は、調和することで循環する自然の摂理を冒涜しているにも関わらず、根本的な考え方を省みることなく、目先的な問題の解決に終始し、益々事態を悪化させている。まさに‘悪循環’に陥っているのです。

投稿者 kumana : 2007年11月15日 List  

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コメント

学者の論争というのがおもしろかった。
それにしても、ホッブスの「bellum omnium contra omnes」というのは、すごいですね。
西洋人の感覚なんでしょうか? 縄文人が聞いたらびっくりすることでしょう。

投稿者 Quetzalcoatl : 2007年12月9日 13:47

「こんなイカサマ師の言うことなんか聞くな。果実は皆のものであり、土地は誰のものでもない。それを忘れたお前たちは身の破滅だ。」と叫ぶ者がいたなら、いかに多くの犯罪、戦争、殺戮、いかに多くの惨事、災厄を人類は免れる事ができたであろうか!
まさに、そのとおりだと思います。
が、ルソーはその後思想的に何を残してくれたのでしょうか?

投稿者 案山子 : 2007年12月9日 14:26

確かに学者が頭の中で考えた説よりも現に証拠としてある考古学説の方が確実と思う

投稿者 orekami : 2007年12月9日 18:32

Quetzalcoatlさん、案山子さん、orekami さん、コメントをありがとうございます。
西洋人の思想には、醜い現実をそれが人間本来の姿であるかのうように正当化する発想と、現実を捨象した理想論の系統があります。そういう観点では、ホッブスの説は国家存在の正当化だし、ルソーの説にはあるべき姿(理想論)としての「自然状態」が示されていますが、現実にある私権闘争をどう止揚するか?という実践論が欠落しています。叫ぶだけではダメだったのだと思います。
現代のわたしたちが学ぶのはこの点で、あくまで事実に立脚していく事で近代思想を超える事ができると思います。

投稿者 匿名 : 2007年12月13日 23:04

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