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2011年04月19日

緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第3回.地震・災害大国日本の歴史-1

日本はプレートの上に出来上がった火山列島です。その列島の地学的特性から、日本には過去何度も地震や津波、台風がおそってきました。日本人はそれをどのように乗り越えてきたのか、庶民やお上はどう動いたのか?を見て行きます。
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日本の地震の歴史~わが国の国民性は地震により形成されている
から引用して、日本の火山活動を俯瞰します。その後に縄文時代~現代までの歴史を通じて庶民とお上の姿を追いかけてみます。以下、引用
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日本列島の火山活動は15万年前から活発になり、1万年前に現在の列島を形成し、6300年前の鬼界アカホヤ火山の爆発をもって休期に入ったと言われている。しかしながら紀元後の大規模地震の記録は少し調べただけでもかなりの数の地震が観測されており、その度に多くの災害を引き起こしている。その恐怖と危機の経験の積み重ねがわが国の人々の意識に色濃く刻印されている。それらが日本人に自然への畏怖を植え続けさせ、まさに今回我々が経験したように地震の度にその原点に人々の意識を回帰させている。それが日本の最大の特徴であり、海外の国々(特に地震の少ない国)が理解できないと言われるわが国の秩序の源泉である。
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引用終わり
ちなみに全世界でおこる地震の20%は日本で発生しているそうです。
さて、災害には、台風、地震、噴火、津波、洪水、旱魃、長雨、虫害、飢饉、疫病等があります。これまで日本人は幾多のこれらの災害を乗り越えて来ました。このDNAが今の日本人に刻印されています。しかし、近代市場社会以降の日本人は、先人の教えを忘れてバブルを作り上げ、経済至上主義・利便性第一を追求して来ました。その結果、大切なものを見失ってきたように思います。それが何かを過去の記録に同化する中で見付けたいと思います。
今までの記事はこちらです
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 プロローグ
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第1回 日本人の縄文体質~有事に現れるその共同性と本源性
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第2回海外から見た日本人の共同性
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○古代Ⅰ(縄文時代~弥生時代)
縄文人・弥生人にとって自然は、対峙しながら畏怖する存在だった(共同体が基本) 
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三内丸山遺跡 ここからお借りしました
記録の無いこの時代は、寒川旭さんの著書「地震の日本史」と、「大地震に備えるから」見てゆきます。以下引用
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第2回/縄文・弥生時代の地震
 縄文時代や弥生時代の地震痕跡は、全国各地で発見されています。宮城県でも、仙台市教育委員会が調査した太白区の北目城跡や王ノ壇遺跡で液状化現象の痕跡が顔を出しており、仙台平野が激しく揺れたことがわかります。北目城跡では、最大幅が20cmを越える割れ目(砂脈)から噴砂が流れ出した痕跡が見つかり、地震の年代は縄文時代の終わり頃と推定されています。
 当時の人々が、地震に対してどのような思いを抱いたかを考えるヒントも得られています。神奈川県大井町の遺跡では、縄文時代前期の人たちが、幅が1m前後の地割れに、浅鉢型土器を2枚重ねで置いていました。香川県高松市の松林遺跡では、地震で流れ出した砂(噴砂)や小石(噴礫)の上に、弥生時代中頃の人たちが壺と甕(かめ)を置いていました。福井市内では、弥生時代後期の人たちが大きな石を運んで、噴砂・噴礫の上に垂直に立てていました。地震の理由がわからないままに、土器で封じ込めたり、大きな石で威圧して、「二度と来ないで!」と願ったようです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
以下は、「地震の日本史」 寒川 旭著のP8三内丸山遺跡についての記載を以下に転記します。
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泥炭質粘土で埋積された谷(縄文谷)からは砂脈が見つかっており、当時の人たちが地震に見舞われたことも明らかになった。
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引用終わり
とあります。自然に対峙しながら畏怖する姿が見えてきます。
○古代Ⅱ(古墳時代~平安時代)
大和政権の成立~律令国家~藤原氏台頭~荘園と武士団がおこる時代
以下は「日本災害史」(北原糸子編)を参考に記載
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この時代は、人知を超えた自然に対して集団と技術でなんとか立ち向かおうとする主体性を獲得してゆく時期です。
日本書記の仁徳天皇67年是歳条に、「祟り」から「神殺し」への記載が出てくる。
暴れる(=氾濫する)蛟(=河の神)を県守という人が切り殺す物語。これは川嶋河の治水が、渡来人の高度な土木技術で氾濫をおさえたことを伝えています。
・しかし、さまざまな災害は為政者(お上)の不徳に基づく天譴とする一方で、神や霊の祟り・怒りとする観念も強く、頻繁に神社へ奉幣を行うとともに、さまざまな護国経典を読誦することでこれを除こうとしていた。又、災害の前兆を読み取るために地域社会に陰陽師を配置していった。陰陽師らは国土の災害や人々が受ける災難の原因を探るとともに、経典に解決法を求め、神仏に祈祷することによって消除しようとした。そして、災害消除のために大般若経・仁王経(仏の力)を国家レベルの法要で読誦させた。さらに、これが村落レベルの除災儀礼(仏教)として浸透してゆく。自然の力に対しては上も下も祈る(祈祷する)時代だった。ここで注目すべきは、災害というどうにもならない外圧に村落レベルで人々がが除災儀礼を中心にまとまっていった事です。
・684年 南海地震 飛鳥時代「南海地震の古事記」 から引用します
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ここからお借りしました
684年 南海地震 飛鳥 津波浸水域
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『日本書紀』巻第二十九、天武天皇十三年(684)十月十四日条に南海地震についての記録がある。
壬辰(みづのえたつのひ)に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大きに地震(なゐふ)る。国挙(こぞ)りて男女叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あ)げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉、没(うも)れて出(い)でず。土佐国の田苑五十万頃(いそよろづしろあまり)、没れて海と為(な)る。(中略)庚戌(かのえいぬのひ)に、土佐国司言(まう)さく、大潮高く騰(あが)りて、海水飄蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調(みつき)運ぶ船、多に放れ失せぬとまうす。
地震発生は同日の人定(ゐのとき)=午後10時頃。建物の損壊は数知れず、多数の死傷者がでた。道後温泉の湧出も止まり、土佐国では田畠五十万頃(しろ)=1200ヘクタールが海中に沈んだ。大津波も襲来して、貢納物を運ぶ船が多数流失したという。周期的に起こる南海地震、上引は記録にのこるその最古の例である。
『日本三代実録』巻五十、仁和三年(887)七月三十日条には次のような記録がある。
三十日辛丑。申時、地大いに震動す。数剋を経歴して震うことなお止まず。(中略)圧殺の者衆(おお)し。或いは失神頓死する者有り。亥時また震うこと三度。五畿内七道諸国、同日大いに震う。官舎多く損す。海潮陸に漲り、溺死する者、勝(あ)げて計(かぞ)うべからず。その中、摂津国尤も甚だし。
同日の地震も南海地震であったようである。同年八月十八日、朝廷は紫宸殿と大極殿で「大般若経」を転読させ、攘災を祈った。この時代の為政者にできるのは祈ることぐらいでしかなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
・1108年 天仁元年浅間山噴火 平安時代
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2009年2月11日浅間山爆発 ここからお借りしました
日本災害史(北原糸子編)を参考に記載
 この大噴火の前の818年に大地震があった。朝廷は被災した諸国に使者を派遣し、貢納免除、身分を問わず被災者には食料援助や家屋の修理を行い、死者の丁寧な埋葬などを命じていた。この時代の朝廷の災害対応は、貢納免除なのだろう。噴火に話を戻す。
 この時期は律令制度の弛緩段階。その時期の朝廷・国司・農民の動きを見てみる。
地震時とは異なり上野国府の復旧範囲は国府周辺の水田復旧に限られていた。朝廷と国府及び地場の勢力との駆け引きがあったようだ。復旧外の地域は後に大荘園が成立する場所になる。
復旧地域の農民は復旧作業に借り出されたに違いない。一方で、復旧を放棄された地域の農民は、国府に放棄された水田を横目に公租外の畠を作っていた。火山灰で埋もれた水田の上に畠をつくって生きる農民の姿があった。
朝廷は祈るだけで、国司は自分の権力を維持することしか考えていない。国司についた農民は、分厚い火山灰の上に水田を復旧したが、それは保水性がない激しいザル田を復旧しただけで、その後は大変になっただろう。
国司から見放された農民は新しい畠で生きた。そして、新たに勃興した武士団によって水田耕作が再開発されつつ荘園が形成され、農民はその荘園に組み込まれていったのだろう。火山爆発という災害を克服しながら、地域に新しい生産力(畠)と新しい集団を生み出していった時期である。
○中世(鎌倉時代~室町時代)
>日本災害史(北原糸子編)を参考に記載
 中世になると仏教の世俗への浸透がさらに進む。たとえば、日蓮の「立正安国論」は、地震や大風などの天変地異や飢饉・疫れいが次々に起こる理由を、世の人々が皆正法に背いて悪法に帰依したため、善神がこの国を捨てて退去し、聖人も立ち去って帰ってこないので、国土には魔(悪鬼・外道)が満ちあふれ、災難がうち続くことになったと説いている。その論拠として金光明最勝王経・仁王経などの四つの経典から、「日月失度難」(太陽や月の異変)・「衆星変怪難」(星の異変)、「諸火焚焼難」(火災)、「諸水漂没難」(洪水)、「大風数度難」(大風)、「天地こう陽難」(旱魃)、四方賊来難」(外国からの侵略)の七難や、「穀実」(飢饉)、「兵革」(戦乱)「疫病」の三災などの災難を列挙する。この著作は正嘉元年(1257)から文応元年(1260)に、鎌倉で大地震や洪水・飢饉・疫病などの災害を体験した日蓮が、その原因を経典から探し出し、悪法を広める諸宗の根絶を求めて、執権北条時頼に提出したように、中世の厳しい自然現象に対処し、事態を改善すべく力を尽くした。災害の歴史は神仏に対する信仰創出の歴史になった時代でした。
・1260年 正嘉の大地震 鎌倉時代から引用
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 正嘉元年(一二五七)八月二十三日夜半、鎌倉に起こった未曾有の大地震(正嘉の大地震)が起こりました。大音響とどもに大地は振動し、鎌倉の寺院.武家屋敷、民家等ことごとく倒壊し、地割れを起こし、道は寸断され、火災が起こり住民は大半が命を落とし、その後も打ち続く天変地夭によって飢鐘疫病がもたらされました。
 鎌倉幕府の公的編纂で、武家による最初の記録文書といわれる『吾妻鏡』には、度重なる災害の様子が細かに記されており、正嘉元年八月二十三日の地震の激しさについて次のように記しています。
 「二十三日 乙巳晴れ。午後八時頃、大地震。大きな音があった。神社や仏閣は一つ残らず倒れてしまった。山岳は崩れさり、人の屋敷も顛倒した。埋め立て地は皆ことごとく破損し、地面は所々裂け、水が涌き出ていた。中下馬橋の辺では、裂けた地面の中から青い火炎が燃え出していた」
 この地震は北緯35.2度、東経139.5度の関東南部を震源としたもので、およそマグニチュード7~7.5と推定されています。(『理科年表』国立天文台編)
 地震学が進歩した今日の予知や発達した情報網、防災完備の建築技術のレベルの高さを考えると、当時の被害状況と単純に比較はできませんが、当時の記録文書は、「八月二十三日の地震」がいかにすさまじいものであったかを物語っています。
 『吾妻鏡』によれば、翌二十五日には、「地震小動五六度」とあり、九月に入っても地震は止まず四日の記事には、「地震。先月二十三日の大地震以後、地震の揺れは止まらない」と。また二十四日には、「地震によって御所南方、東方の埋立地が壊れた」、さらに十一月八日は、「大地震。八月二十三日の大地震と同じ規模であった」とたいへん不安定な状況が続いていたことがわかります。
 この間幕府は、諸々の寺社に地震がおさまるよう祈祷をさせましたが全く効果はなく、五年間に四度も改元されるあり様でした。そして正元元年(一二五九)には、大地震、大雨洪水がこれまでにない飢饉や、疫病を招き、その被害は広い範囲におよんだのです。民衆はなす術もなく途方にくれるばかりでした。
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 お上は、貴族から武士に代わり、序列統合が進んでも地震・津波・飢饉・疫病等の災害には祈祷でしか対応出来なかった。そして、庶民も為す術がなく、信仰宗教などにすがり祈るしかない時代だった。
しかし、洪水という災害を克服しつつあった。洪水は繰り返し発生する災害であり、中世においては洪水はある程度許容され、共存しながら社会が組み立てられていた。荘園領主も井料田などの恒常的な財源を確保し、堤防や用水施設などの管理・修築の体制を整えていたが、それは個別の荘園支配を前提としており、大規模災害や災害の頻発という事態には対処しきれないのである。この時、以下のような慣習法が生まれてきた。
 旧木曾川下流部の立田輪中を成立させた東寺領尾張国大成荘の事例で知られている。
自領の堤と連携する堤を他領内に築くことが必要で、他領の側も共通の利益が得られるにもかかわらず築堤工事がなされない場合は、他領内であっても工事を行ってよい。そして工事によって利益を得ることになった他領地側は、工事に要した費用相応分を、工事を行った側に負担せねばならない。この慣習法は築堤への意欲を支え、個別の荘園領主の意志をも規制した。。

このような形で荘園を越えた村落連合が生まれ、これが請負制を生み、在地社会から離れ、地域保全のシステムが作り出されていったその担い手だったのが、地域的な村落連合であり、それと密着した土豪・国人たちだった。
災害克服という課題が庶民の意識を統合し、生産力を向上させた。自分発の荘園領主を、みんな発の村落共同体システムが凌駕したともいえる。
この時代は、災害を前にして、宗教的儀礼や、工学:家屋建築技術から輪堤の構築技術、農学:早稲・中稲・晩稲の開発等は、さまざまレベルの社会集団を組織した。これらは村落共同体を強化しながら、災害への耐性を高めていった結果ともいえた。
振り返ると、お上は自分の事のみ考え、存亡を繰り返す。しかし、庶民は災害を糧にして村落共同体を核にして生産力=活力を上昇させて来た歴史と言えそうです。
むかしから、日本人(=庶民)は、村落共同体を活力源に、自然に対して畏怖しながらも毅然と対峙して来た歴史をもっているのですね。
😀
次回は江戸時代~現代まで見てゆきます。
大都市化する中で庶民の村落協共同体の意識はどうなっていったのでしょうか?
そして、お上の意識は?お楽しみに!

投稿者 sakashun : 2011年04月19日 List  

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