縄文人、再生への祈り |
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2007年12月26日
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
前回、 「弓矢の発明前夜、日本の黒曜石が大陸に運ばれた理由!」では、黒曜石によって縄文集団の生活が劇的に変化した、ことを書きましたが、では、黒曜石が産地から何百キロも離れたところで多く見つかっているのは、何故か?多くの考古学者は当時既に交易があったと述べていますが、本当に物流のネットワークが存在したのか?
るいネット「黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②」では、以下のような見方が提起されています。
>結論から言えば私は「贈与」によるものであると思う。
何故なら、まずこれだけの広域かつ多方面の広がりからみて、交易である事は考えにくい。何故ならば上記の物品(原石)が採掘できる場所は限られており、かつ仮に交易であれば、一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずである。つまりこれだけの広域の広がりを説明できない。
逆に贈与であれば、潜在的な緊張関係のもとでかつ友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域に渡ることが説明がつきやすい。
●日本の代表的な黒曜石の産地
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/kokuyose.htmlより引用
今回は、黒曜石の産地と広がりについて紹介し、それは贈与か交易か?を探ってみたいと思います。
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■北海道の黒曜石
先ずは、ご存知の方も多いと思いますが、北海道白滝村産の黒曜石からです。
白滝村付近を流れる湧別川上流の幌加沢遺跡遠間地点では、わずか100㎡にも満たない発掘区から40万点近い大量の石器や剥片が発掘されています。しかもその殆どが製作の際に原石から剥がされた剥片、或いは石器の形を整えていく過程で剥がされた剥片類で、全体の97%に相当するらしい。
ここでは、石器の材料に使えるような大きさの黒曜石は含まれておらず、黒曜石の材質の良し悪しを見定め、或いは試し割りしながら石器を作り始めたと想定され、石材産地から切り出し搬出する為の一大拠点であったと考えられている。
円グラフの上半円は、遺跡から出土した遺物総数に対する石材別構成比。
下半円には、黒曜石試料数に対する原産地別構成比。
図はhttp://kinobunka.zouri.jp/sirataki/kokuyousekiA/siratakisan.html“>http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/11/000386.htmlでは、温暖化に伴い、北方シベリアから大型動物を追い求めてきた民族が北海道に到達し、狩猟に便利な黒曜石を持ち帰ったと述べましたが、
実際、北海道にはそれ以前から原住民は住み着き、黒曜石を使って狩猟を行なっていたと考えられる。従って、温暖化したと言っても、過酷な冬を乗り切るには、原住民自身も動物群を追って動き、人の動きにつれて分派した家族が別の場所に移動し、それに伴い技術や黒曜石も運ばれたと考えられる。やがて南下してきた北のシベリア人との接触が増える中から、緊張関係の緩和、或いは、食糧の分け合いをし、徐々にサハリンにも黒曜石が運ばれたと考えられる。
■中部地方の黒曜石
長野県の麦草峠、霧ケ峰、男女倉、和田峠が著名であるが、神津島の黒曜石も古くから関東地方に運ばれている。信州系の黒曜石は、縄文時代を通して半径150Kmの範囲に原石の供給が認められるという。
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/kokuyose.html より引用
長野県の星糞峠では、1万年前の黒曜石の鏃が見つかっており、そこでできた石器は南関東で多く出る他、近畿地方でも発見されている。原産地以外で見つかった黒曜石は、全て製品化された石器で、原石は見つかっていないことから、何らかの目的で交換、或いは送られたと考えられる。
■隠岐産の黒曜石
隠岐産の黒曜石は、日本海を越えたロシア沿海州のウラジオストック・ナホトカ周辺の18,000年前の遺跡や朝鮮半島からも見つかっている。この当時は、今より海水面は30m程度上がっており、大陸と陸続きとなっており、人々の行き来が行なわれたようです。
http://www6.pref.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=INPAKU_PAVPOINT2&WIT_oid=Rrmo30GeA2LZoOcdxRBM3pWeJE2RStu6CupqOG&pavtype=time&pointnum=2より引用
このように、黒曜石が広がりを見せ始めたのは、温暖化が始まった約18,000年前です。当時、人口は日本中で2万人程度であるが、丁度この次期は寒冷化のピーク、日本は大陸と陸続きであった為、大陸に住んでいた人が南下する大型動物を求めて、北海道や、朝鮮半島から日本にやってきたと考えられます。
従って、それまで顔の見える範囲の人しかしらなかった住民との間では、当然、緊張関係が高まり、それらを緩和する為に自分達が最も大事にしていた黒曜石の石器(完成品)を贈与したと考えられます。
また、そこから縄文草創期にかけては、徐々に温暖化に向かいます。未だ土器や弓矢は発明されていない時代だったので、人々は定住ではなく、少ない小動物を求めて周期的に移動を繰り返していたものと考えられます。従って、日本での黒曜石の拡がりは、贈与と言うより、同じ部族が食糧を求めて分派したり、移動したりする中で黒曜石が広がっていったものと考えられます。
それまで、過酷な自然の中で暮らし、他部族とぶつかるような緊張関係になるのは始めての体験だったと思います。その中で、いきなり相手に物を渡す変わりに見返りを要求する、という発想は彼らにはなかったのだと思います。これだけ、広域に黒曜石が広まっていったのは、相手と友好関係を結ぶ手段として、当時、最も実用的で大事にされた黒曜石が有効だったからではないでしょうか!
投稿者 simasan : 2007年12月26日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2008年1月13日 01:48
tanoさん
>しかしこれから確実に変わるであろう社会構造、今度はどんな骨格を作っていくのでしょう!
なるほどーこれからどういう骨格になっていくんでしょうね^^みんなで認識をこうして積上げていくから、頭の中身が変わっていくだけで、骨格はそんなに変わらないのでしょうか?
投稿者 さーね : 2008年1月13日 12:49
興味深い記事ありがとうございます。
社会構造が骨格を変えるというのはなるほどです。
2度ならぬ3度目の激変が現在確実に起きていますね。
しかしこれから確実に変わるであろう社会構造、今度はどんな骨格を作っていくのでしょう!