後期旧石器時代の日本:遺跡間接合~世界的にも珍しい”交流を示す?” |
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2009年03月11日
考古学から見た東と西の違いは?
東日本と西日本の文化の違いは現在でも言われているところであるが、
『縄文時代に於いても東日本の文化が西に比べ豊で栄えていた、従って人口も多い』と言われている。
言われている文化の違いとは何か、その原因がどこから来るのか調べてみました。
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●石器の語る東と西
日本の文化は縄文あら始まるといわれっているがもっと昔大陸の一部であった日本列島上で人類の活動が見られ始めるのは少なくとも三万年より遙かに以前の前期旧石器時代から始まっていたことが確実になっている。
東日本と西日本の違いは既に二万~一万五千年前のころから明らかになっていると言われている。
東北地方と中部地方の日本海側には黒曜石硬質頁岩を素材とする細長く柳の葉の形をした杉久保型ナイフが見出され、これは縦そぎの技法によって作られている。
これに対し西日本の瀬戸内海を中心とした地域では横そぎの方法で制作されサヌカイトを主な素材とする横長の国府型ナイフが分布している。
つまりナイフの型の上でも石器製作の技法に於いても東と西にはハッキリとした違いが見受けられる。この違いはこの後の細石器文化以降の有舌尖頭器の文化に於いても東と西にはハッキリ違いが見出される。
こうした文化の相違を環境考古学の視点から植生、動物相の違い、「当時の人類を取り巻く生態的条件の相違」に求める。さきの杉久保型ナイフの分布する地域には、亜寒帯針葉樹林(エゾマツ、トドマツを中心とする)国府型ナイフの分布地域には、針広混合林・冷温帯落葉広葉樹林(ミズナラ、トチノキ、クルミなど)が広がっており、東の細石刀文化には北方の亜寒帯的要素が西の細石刀文化には南方の落葉広葉樹林(コナラ、イヌブナ、アカシデなど)の温帯的要素がそれぞれ強く結びついている、と指摘されている。
●縄文土器の語る東と西
こうした地域差は縄文文化に入ってからも歴然と受け継がれている。
縄文時代に入ってからも遺跡の密度が東日本に多く西日本に少なく、土器圏がしばしば中部地方を境にして大きく対立し、また、土偶や岩版などの呪術的な遺物が東日本に多いことなどが指摘されている。
特に縄文早期に見られる東北日本の沈線文土器と西南日本の押型文土器の対比は鮮明であり、晩期にはいるときわめて精緻かつ華麗複雑な文様をもち、実用的機能以外の要素を有する土器が豊富に作られ弓矢の著し発達に伴う狩猟文化の極地とまで言われる亀ケ岡式土器によって代表される東日本と口縁に凸帯を巡らした粗雑、簡素な土器で斉一化された器形、徹底した無文様の特徴を備えた土器の分布する西日本との顕著な相違が明らかになってくる。
このような縄文文化の東西差の背景も石器時代と同様に東西日本の自然環境の違いがあると指摘されることが多い。
●東と西の違いはどこから?
この問題の環境論的理解を与えたのは、照葉樹林文化論である。そもそも照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から雲南、中国南部を経て西日本にまで分布する照葉樹林帯に、ウルシやシソ、茶、絹の利用、コウジを使った酒造り、アク抜き技法などの文化要素が分布していることを指摘するものであったが、その後、この地域における固有の農耕文化の発展図式が提唱され、稲作以前の日本に「照葉樹林焼畑農耕」の存在を予想するに及んで縄文文化論に深く関わるものとなった。縄文時代の焼畑農耕の存在については、今の所、十分な説得的な証拠はない。
しかし、照葉樹林文化論は日本の東西における環境の違いを際立たせ、或いは、縄文文化の東西差と植生との関係を強く印象付けるものとして大きな役割を果たした。
西日本に照葉樹林文化が受容された背景として、西日本の照葉樹林は東日本の落葉樹林帯に比べて豊かな環境ではない、豊かな東日本に成立した「成熟せる採集民文化」は西日本では不十分にしか形成されず、そのために農耕文化への移行がより早く起こったという説。その根拠として、縄文遺跡が東日本に多く出土しているという。
しかし、これらは皆東日本に遺跡が多いことを、東日本の環境が豊かであったと読み替えただけのことであり、遺跡密度と環境評価とが循環論をなしていることは明白である。
これに関して、特に東海、中部、関東地方において、縄文中期に遺跡の数が最も多くなり、後期、晩期になると再び減少することについても環境論的解釈が提出されている。
東京湾における後晩期の文化の衰えを、水域環境の変化による「漁猟活動のゆきづまり」といわれ、縄文中期の気温低下が関係づけられ理解されることが多く、それに加えて縄文人による自然環境や乱獲による資源減少の可能性が予想される。
●東と西の環境再評価
気温は、西日本がより暖かい。東日本の寒くて長い冬を過すには、寒気を防ぐ丈夫な住居、厚い着物、多くの燃料が必要であり、生活への負担はそれだけ多くかかるであろう。長い冬を越すには、より多くの越冬食料を保存しなければならないだろうが、それを準備する暖かい期間はより短いのである。
タンポポの開花日は、西日本では3月20日頃が、東日本では4月10日以後と20日程度の遅れ、又、冬の到来を知らせるカエデの紅葉日について20日程度のずれがある。植物の成長期間、或いは冬の長さは、東西日本で40~50日ほど違ってくる。縄文時代に食料とされていた野生動物植物の生産量にも大きく影響したに違いなく、生活を不安定にする要因として働くことがあったとしても、より豊かな環境を用意するとは思えない。
●森林の主要な構成種
森林の主要な構成種はいずれもブナ科植物である。その種類数は温暖の照葉樹林に多い。照葉樹林にはシイ、アラカシ、シラカシ、ウラシロカシなど9種類の常緑ガシ類とクリ、コナラ、アベマキなど6種の落葉性ブナ科植物とがともに分布するのに対して、落葉樹林帯には5種類の落葉性ブナ科植物が生育するのみである。
縄文時代にはこれらのブナ科の堅果が重要な澱粉源として利用されたが、少なくともその種類数は西日本により多く、食料資源の選択の幅はそれだけ多かったことになるだろう。
これらの堅果の食品としての性質であるが、西日本に広く分布するシイには渋味がなくそのまま食料となるし、マテバシイ、シリブカガシの渋味も少ない。これら堅果利用の民俗事例の調査では、常緑ガシは水さらしだけによってアク抜きされるが、東日本に多い落葉コナラ類の堅果のアク抜きは、過熱加工や灰の利用が加わっており、それだけ渋味が強いのであろうと推測している。
落葉広葉樹林のブナの堅果も渋味がなくそのまま食用になるのであるが、ブナ科の堅果としては最も小さく、また、数年に一度しか結実しないこともあって、食料としての利用価値は低いようであり、縄文遺跡からも殆ど出土しない。
縄文時代には、これらブナ科の堅果の他に、クルミ、カヤ、ヒシ、トチ、の堅果が利用された。
これらのことからすれば照葉樹林の森は少なくとも落葉広葉樹林と同じ程度か、或いはそれ以上の豊かさを持っているものと考えるべきであろう。
従って東西文化の違いや人口分布の違いなど「照葉樹林文化論」が定説とされているが最近の遺跡発掘の資料も踏まえ再考の余地がありそうである。
投稿者 mukai : 2009年03月11日 TweetList
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コメント
投稿者 誠吉っつぁん : 2009年4月14日 22:46
こんばんわ。
カナちゃん、お疲れ様でした。
文章を読むだけで私も古墳めぐりをしたみたいな感じになって一緒に疲れています。最高のレポートありがとう。
古墳の写真もよかったけど、やはり一番は柿の葉ずしですね。
これだけ料理の写真が上手い人はなかなかいませんね(笑)
古代史フィールドワークはぜひ続けてください。次のレポートも楽しみにしています。今度は神社巡りはいかが・・・。
>一番気になるのは大きさです。なんであんなにでかいの
だれにあんなのつくらせたのっていうところです。
⇒これは古代史グループで引き続きトライしていきます。
投稿者 tanoyan : 2009年4月15日 00:38
こんばんわ~。縄文ブログは硬派(?)とビビッていたので、カナさんのレポートにほっこりです。
季節の植物を見て、名物料理を賞味して、とれとれ農産物をエコバックに入れて…、オバサンの大好きなコースです。
関西に住んでいると、古道歩きで安心してしまって、渡来人とヤマト民族の関係なんて、どーでもいいような気分になりがちですけれど、「国家発祥の地」と威張るからには、関西人だけが感じていればいいのじゃなくて、北海道や沖縄で動けないお年寄りとか、派遣切りされて都会の公園のテントで辛うじて生命をつないでいる人たちとか、新たに出稼ぎにきている外国籍の人とかにも、日本は本来こういう始まり方をした国だから、こういうヴィジョンを持っていたんですよと、メッセージを送れればいいですね。
その意味で、活字の限界を超える可能性は、ネットにある(かも)と思います。
カナさん、姫路のご出身ですか! 播磨なら、縄文ブログで時々話題になる秦氏にゆかりの坂越の大避神社に行かれたことおありますか? 大避神社から宝珠山に登って、相生まで、わたくし歩いたことがあります。相生湾側に出てからはやや殺風景な道ですが、最後にペーロン城のお風呂に入れたし、あれは、なかなか面白かったです。
坂越から赤穂へは歩いたことがないので、そのうち試してみたいと思います。
投稿者 高塚タツ : 2009年4月15日 22:37
みなさんコメントありがとうございます^^☆
⇒誠吉っつぁんさん
誠吉っつぁんさんも山之辺の道好きなんですか!?
私もリピーターになりそうです^^♪
天理らへんはまだ行ったことないので興味津々です!
やっぱりにゅうめんは必須なんですね☆笑
また秋ぐらいに行こう思います♪
あと、ぜひ古墳とか大きいモノの撮り方を教えてください。笑
⇒tanoyanさん
tanoyanさんも疲れちゃいました!?笑
このシリーズは好評そうなのでぜひ続けたいと思います♪
神社めぐりもいいですね~☆☆
>これだけ料理の写真が上手い人はなかなかいませんね(笑)
↑ありがとうございます^^♪
なんとなく工夫してみました笑
古墳の大きさについてはぜひ解明してください!!
気になりすぎます!!笑
⇒高塚タツさん
こんばんは~♪初めまして、カナです!
この、のほほん旅シリーズで、お堅いブログを明るくしようと画策中です^^♪♪
>その意味で、活字の限界を超える可能性は、ネットにある(かも)と思います。
↑そうですね~どんどん発信して、みんなに知ってもらいたいですね♪
私姫路出身ですが
>秦氏にゆかりの坂越の大避神社
なんてぜんぜん知りませんでした!
播磨にも秦氏の神社があるんですね~!
一回行ってみたいです^^♪
高塚タツさんもペーロン城に行かれたことあるんですか!?
あそこってギャグにしか思えないかんじで面白いですよねw
こんどはぜひ姫路城にもお越しくださいね~!!
投稿者 カナ : 2009年4月16日 01:42
コメント乗り遅れました…^^;
とうとうこのブログもフィールドワークネタまで…いやぁ、ますます追求の幅が広がりましたねー
高塚さんの言われる通り、ちょっとホッとすると同時に、色濃い自然に少し縄文人への同化ができたような^^;面白いレポートでした!
いろんな視点、切り口で一緒に追求していきましょう!
投稿者 さーね : 2009年4月16日 19:26
⇒さーねさん
コメントありがとうございます^^♪
ついにフィールドワークまで行っちゃいました!!笑
シリーズ化決定なので、次もぜひよんでくださいね~☆
投稿者 カナ : 2009年4月18日 20:22
初めまして。歴史(古代)が大好きで南河内(大阪)でフラフラとフィールドワークをしてます。
まだ、フィールドワーク活動されてますか?活動内容や今後の予定など教えてください。
投稿者 スサノヲ : 2011年9月28日 09:39
おおっ山の辺の道!!大好きなコースです。
実はおととい日曜日。そこ歩きました。天理駅~三輪駅まで4時間かけて歩きましたよ。ハイキングするには最高の場所ですよね。最初の天理駅を降りて商店街に入ると、天理教の黒い法被きた高校生らが、普通にママチャリ乗って闊歩してます。この商店街通るときはかなりアウェー感を感じますが、でも至って普通です。天理教の教祖を祀っている「おやしろ」という巨大な建物があって、周りは教団の独特の施設が点在しています。独特の空気が支配しています。でも怪しくありません。「こんなとこもあるんだな」と思う程度ですね。
山の辺の道に来ると、とても心が落ち着きます。静かだけど人々の営みがあるという安心感に包まれていくような感覚があるんです。
僕がお勧めの場所は、天理教の本部を抜けて山道に入ってすぐにある「石神神宮」(ここは鶏が放し飼いされています)と三輪山全体がご神体の大神(おおみわ)神社です。あと神社の入り口の前にある「森正」という、うどん・にゅうめん屋は、庭先で食べる店で、寒い時期は薪を炊いて暖をとってます。この燃える薪の匂いがなんともいえない!!
秋は紅葉が綺麗なので、行くとしたら秋お勧めします。