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2012年03月27日

「日本人の起源」を識る~5.日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」

こんにちわ。
「日本人の起源を識る」のシリーズも後半に入ってきました。
これまで過去4回の記事で列島を取り巻く縄文時代前後の気候・地形状況、最初に列島に渡来した「C3」、縄文時代、縄文人を形成したと推測される「D2」を見てきました。また前回はそれらを受けて日本人の基層になっている言語という観点で日本人の起源を俯瞰してきました。前回の記事で日本語=母音言語という観点からD2とC1の混血、あるいは文化的交流が日本人の原点にあるのではないかとの指摘をしています。
今回は前回の記事で提起された日本人のもう一つの起源、「C1」に注目していきたいと思います。
日本で南方から渡来してきたのはY染色体にC1遺伝子を持つ民です。以降「C1」と略します。この民族の特徴はD2同様に世界的にも日本にしか存在しない亜種です。
まずはC1の日本での分布構成を見てみましょう。
   沖縄 九州  徳島 静岡 東京 青森 アイヌ
C1  4% 4% 10% 5% 1% 8% 0%

現在では非常に少数しかいないC1ですが、列島各地に一定程度分布しているという見方もできます。日本海側のデータがないので何とも言えませんが、概ね太平洋側西日本各地に分布しています。このC1は後に紹介する日本でD2に次いで多いO2bやO3と異なり、後から日本列島に入ってきた後発隊ではありません。
かなり初期にそれも縄文人の形成時期にD2と同様に日本列島に辿り着き、縄文人を形成している集団である可能性がかなり高いのです。その意味でC1の追求は日本人の起源を考える上で重要な内容を含んでいると思われます。
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【ヤンガードリアスという寒冷化がD2とC1の混血を促進した】
まずはD2の流入時期ですが、先の記事でおおよそ1万6千年前から1万3千前年前という仮説を立ててみました。これは元々採集民であったD系統が急激な寒冷化で定住地を捨てて落葉樹林帯に併せて日本に入り込んだという仮説です。
この1万6千年前と1万3千年前は共に寒のもどりという急激に寒冷化する時期に相当します。この2度の寒冷期に日本に入り込んだ集団が土器を有したD2の民だと考えられています。
このドリアスと呼ばれる寒冷期は数百年単位の寒冷期間ですが、おそらく1万6千年前から入り込んだD系統はその後温暖化してからも九州にしかまだ広がっていない落葉樹林帯の中で分布していたのだと思われます。従って、この時代に本州での土器はまだ多くは見つかっておりません。
12500年前の温暖期についに九州と大陸が海流で切り離され、D2は日本列島に封じ込められます。さらに、この時代ヤンガードリアスという急激な寒冷期に突入します。その後約千年間の寒冷期が続き、アジア大陸では平均気温が9度も低下するなど高緯度での生存はほとんど不可能になります。日本に定着して既に数千年を経過して人口も一定増えていたD2もこの寒冷期にかなり減少し、また温暖な地を求めてひたすら南下するしかなかったと思われます。大移動といかないまでもD2が南に集結したことは容易に予測できます。
【C1の漂着と生産様式】
一方、C1は既に1万3千年前頃には南九州に到達しています。
2万年前の温暖期に大陸が沈みはじめ大移動が起きたスンダランド難民の一部が黒潮に乗って流されたのが九州南端やその周辺の島々に住み着いたのがC1の民でした。貝文文化とはこうして始まり、日本最初の半定住(栫ノ原遺跡)を始めます。

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4が 栫ノ原遺跡(その他も縄文草創期の定住遺跡)

彼らは燻製の技術と漁撈の為の石器を備えていました。
そして彼らの最大の特徴は黒潮を渡ってきた舟の技術です。日本最古の舟を削り出す為の石斧を使いこなしていました。温暖期には中九州、北九州にD2、南九州にC1と住み分けて暮らしていたと思われますが、ヤンガードリアス期にはこの距離が一気に縮まり、D2がC1の生活圏に入り込むようになったと思われます。

【極寒期は九州の南北には気候格差があった】
ここで移動したD2の人々に同化する為にこの時期の気温を予想してみたいと思います。
200キロそこそこしか離れていない北九州(福岡)と南九州(鹿児島)は現在でも年間平均気温で1.9度、1月の平均気温の差は2.8度の差があります(気象庁データ―を元にした下記の資料参考に)
福岡 9.8度(1月) 20.5度(平均)
熊本 10.3度(1月)21.6度(平均)
鹿児島 12.6度(1月)22.4度(平均)

平均気温より冬の温度差が大きい⇒これは黒潮が直接当たる鹿児島が暖流の影響を受けて冬季には暖かいという特徴を示しいています。
ヤンガードリアス期は大陸ほど(マイナス9度)ではないにせよ、平均気温で5度から6度は低下していた可能性があり、そう考えると福岡は1月には平均3.8度、鹿児島は6.6度になります。
しかし低緯度では寒冷化の影響が少なかった、さらに鹿児島は暖流の影響が多きかった事から鹿児島の6.6度は数度暖かかった(おそらく8度から10度)可能性があります。そのように設定すれば、この時代、南九州に限って何とか採集民が生存可能な環境にあったと考えることができます。
【D2とC1の混血はいかにして行われたか】
前回の記事に以下のような問題意識が提起されました。
>C系統は1.8万年前ごろ母音言語を携えてスンダランドへ到達。
1.5万年前ごろよりスンダランド海没がすすみC系統の人々はしだいに東部方面→ポリネシアへ拡散を開始。北方への拡散も進み、日本・九州の南端へ1.2万年前ごろ到達(C1系統の貝文文化)。そして、彼らの母音言語は、当時、寒冷期ゆえ九州に留まっていたD2系統へ受け継がれ日本語の源流となる。(ここのメカニズムは次回の投稿で明らかにする予定です!)

この問題意識をもう少し噛み砕いておきます。
縄文人の祖先であるD2は南方民族ではありません。元々はインドの東側にいた民族が温暖化と寒冷化で移動する森を追って北へ、東へと移動してきた森の民です。C3や03といったサバンナ地帯にまで広がった北方民ではありませんが、南と北の間、ちょうど温帯地方を経由してきた民です。
しかし上記に書かれているように母音言語に見られる日本語は南方圏の言語であり、その言語をどこかで民族の融合によって、それもかなり長い期間、意識的に獲得しなければD2民が南方言語を自集団の言語とする事はなかったと思われます。日本語は縄文時代を通じてD2が日本国土に広がり、その言語形態を拡散することによって日本人の基層が出来上がっていきました。D2がいつどこで南方言語を手に入れたのか、またなぜ彼らが南方言語を使い続けたのか、そのメカニズムがこれから展開する論点になります。
先にも述べたようにD2はC1の居住域に近接、中にはその生活圏に入らざるを得なかったのです。民族と民族がぶつかれば縄張りを巡り睨みあい、戦争が始まる
というのが歴史の基本パターンと考えられていますが、このD2とC1の接触はそうではなかったと考えます。D2はC1と遭遇し、その中で生きていく上でまず、相手方を注視し、彼らが用いていた言語を吸収、理解しようとした。さらには彼らと会話(コミニュケート)する為に言語を用いるようになった。D2がC1の言語を取り入れたのはそういう動機ではないかと考えるのです。
実際この事は私たちの生活体験からも容易に想像できます。例えば何らかの事情で急に大阪で生活する事になった東京の人の場合、特に子供であればあっという間に大阪の言葉を覚え、いずれ東京の言葉を忘れてしまい2年もすればほぼ完全な大阪人になっていきます。その時の意識は、友達を作ったり、皆と仲良くしたいと言う素朴な意識です。郷に入れば郷に従えという言葉にもありますが、その土地で暮らす為にはその土地(集団)のルールを身につけるというのは殆ど本能に刻印された同化能力の一つなのです。
ヤンガードリアス期は約1300年続き、その間にC1とD2が混血、文化的には同一のものになっていったのだと思います。さらに同一とは言ってもその大半が南方的要素を持つC1にD2が同化していったのではないか、そう考えるのです。
ただ、元々森の民であるD2と海洋民的素養のC1はその後の動きは異なっています。
ヤンガードリアスが明けて、再び温暖化が始まると、D2の民は再び森林に併せて北上拡散していきます。やがて縄文中期には青森から北海道まで進出し、縄文文化の基層を作っていきます。一方のC1は海洋民であり、九州南端で暫く定住を続けますが、約7000年前に起きた鬼界カルデラの噴火を機に関東、四国、そして沖縄に分散していき、それぞれの地で海洋文化としての縄文文化を展開していくのです
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クリックすると拡大します↑
このD2とC1が織り成す縄文文化はその後、森の民⇒栽培、採集民、海洋の民⇒漁撈民としてそれぞれの文化的特徴を備えた複合的なものとして縄文文化を醸成し、現在の日本人に繋がっていると思われます。また、彼らが1万年間決して争わず、互いに理解しあえたというのはひょっとするとヤンガードリアス期の南九州での出会いと言語的融合にあったのかもしれません。
【まとめ】
①採集、定住と土器を特徴とする縄文文化は九州から始まる。
②大陸から来た森の民、D2と南洋から漂着したC1が九州の南北に分かれて居住
③極寒冷期に南へD2が移動し、C1居住域へ合流、九州南端で2つの文化が融合する。
④移動した側のD2がC1の言語を獲得し、1000年間の間に言語が統一される。
⑤温暖期にD2が本州へ移動、北へ居住域を拡大し、C1言語である母音言語を統一言語、縄文語として列島に広める。⇒既に縄文時代には現在の日本語の祖語が全国に広まっていたとする根拠に繋がる
日本人が多民族の集合体であるにも関らず、単一民族、同じ共認域で存続できたのは言語の統一の要因が大きいのではないだろうか?

投稿者 tano : 2012年03月27日 List  

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