シリーズ「インドを探求する」第13回~インドにおける可能性の実現基盤 |
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2010年08月22日
シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第2回~追求の立脚点
こんばんは。
新シリーズ「日本人の“考える力”を考える」を担当しますtanoです。
現在、シリーズの初回の記事「縄文土器、土偶にみる縄文人の思考力」を構想しており、スケジュールが少し遅れていますことをまず読者の方にお詫びします。
このシリーズは縄文時代から始まるわけですが、その理由は日本人の“考える”という思考力の原点が縄文時代にあり、その力が現在まで日本社会の中で温存されてきたのではないかという仮説に基づいています。
その仮説の根拠は既にこのブログでもこれまで多く投稿されてきたように日本人とは何か?を考えるにつけ、私たちの感覚レベルの中に深く浸透している、言葉や明確な定義によらない“何か”=日本的なるモノの中にあるように思い、なかなか明確、明文化できなません。それは、それらが言葉以前のより深い位置に存在している故ではないかと思います。
そんな事を考えている時に、当ブログにあたらな仲間として会員になられた方よりかなり共感できるメール をいただきました。
今日はその文章 を紹介をさせていただき、このシリーズを始める立脚点としていきたいと思います。
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縄文はもとより、御ブログは最近変化を始めた市場主義であったり、イスラム社会であったりと、そろそろ沸点が近いのにまだなかなか表面に登らない議論を多く含んでおり、そのあたりも興味深い部分です。
私自身は特に縄文に直結する生まれや育ちというわけではないのですが、そんな自分自身が日本人としてのアイデンティティをどのように考えればよいのか、迷いながらの勉強中です。
自分たちの出自について同じ思いを抱えている日本人は思いのほか多いと思っています。何時までも解決しない「いじめ」であったり、日本人が個性を主張できないといった問題もこのあたりに回答があるのではないか・・・。
もしかしてこれは、そもそも回答のない何かなのかも知れませんが。
日本人の本質はなんだろう、日本が独自に自力で築き上げたものはなんだろう、という問は近代以前からも延々と議論されてきたと思いますが、その問を辿ると結局縄文、大げさに言えば縄文を含めたそれ以前の文字を持たない人類社会にたどり着くことになるかもしれない、というのが最近の投錨点になっています。
自分の認識では三内丸山が1000年続いた時期がこの地域(日本のことですが)の最盛期だったのではないか・・・そう思えるだけの力を縄文に感じつつも、しかし今の日本人の多くは「蝦夷」に対して侵略を重ねてきた側に属していたかもしれず、縄文が日本人の本質であると偉そうに主張するのもはばかられる。
表面だけを単純化してしまえば、縄文から弥生は結局大陸文化への適応であるし、日本人の自立としてよく引き合いに出される明治維新も結局西洋文明化と言う括りになってしまう。その背後に我々を貫く何かはないのだろうか?
いったい日本人が自分たちをどう日本人であったかをはっきり認識出来ていた時代はあったのだろうか。興味と懊悩は尽きず堂々巡りとなっております・・・
~「日本人の本質はなんだろう」という問いの答えが縄文時代あるいはさらにそれ以前の社会にあるのではないか?~という投げかけは当ブログのテーマでもあり、まさに今回の追求テーマに合致する問題提起だと思います。
~いったい日本人が自分たちをどう日本人であったかをはっきり認識出来ていた時代はあったのだろうか。~
日本という国家認識が形成されて以降はひたすら大陸文化を取り入れ消化する連続でした。第2次大戦で日本国を神の国として妄信した国民は軍部や大本営から与えられた支配観念を刷り込まれたに過ぎません。この方が問題提起されるように日本人が日本や日本人の本質を大衆レベルで考え行動した足跡は果たしてあったのだろうか?この問いには「うーん」と腕組みをしてしまいます。
江戸時代にあったようにも思えますし、なかったとも言えます。国際社会や国家を国民が認識する以前の時代にそのような社会的観念が思考できたのか甚だ疑問でもあります。
ただ一つ言えるのは、日本人とは何かの答えはそれを考えてこなかった過去の日本社会やその中で育まれてきた日本人の意識の中に必ず在るはずです。
・・・という事で、これからそれを探し出す歴史の旅 を縄文より始めていきたいと思います。
これから本論を追求していく上で西洋と東洋、また大陸と島国といった観点で日本人の位置とその捉え方について、これまで何度も議論されてきたるいネットの中から関係する記事を探してみました。そちらの方もご参照下さい。
「日本人の可能性 共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い」
西洋人/東洋人(その中でも日本人)の民族性の違いは、人間の本性である共同性がどれくらい残っているかによって規定されています。東洋であれ西洋であれ、始原人類はこの共同性を育みながら、共認充足を最大の活力源として何とか生き残ってきた存在です。
約5000年前にイラン高原で勃発した人類最初の略奪戦争は、玉突き的に東西に伝播していきますが、皆殺しが常態となっていった西洋に比して、東洋は支配・服属という形が主流となります。特に、日本列島では、大規模な略奪戦争は発生せず、中国大陸の負け組みが渡来人として定着していきました。
この大規模な略奪戦争の有無によって、西洋人、東洋人、日本人、それぞれの共同性に大きな差が生まれ、民族性の違いを生んでいます。つまり、皆殺しにまで発展した戦争を経験した西洋人は周囲に対する警戒心が高まり共同性が失われ、そのような戦争を経験していない日本人は警戒心がそれほど高まることなく共同性が保持されています。
この「共同性」が影響を与えるのは、何も人間関係だけではありません。共同性の根本にある自分と相手を同一視する機能は、観念機能のあり方にも大きな影響を与えます。(対象物である自然との同一視を通じて作り上げられた日本の観念体系と、自然を警戒すべきもの→征服すべきものとして捉えて作り上げられた西洋の観念体系)
この観念のあり方の違いが、その後の文化・芸術の発展過程をも分けていきます。日本では、できるだけ主観や自身の感情を排して対象をありのままに描写する方向で文化・芸術が発展していきますが、西洋では自身の感情を(大げさに)描写する方向で発展していきます。(日本の浮世絵⇔西洋の宗教画/日本の俳句⇔西洋の叙情詩)
投稿者 tano : 2010年08月22日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2010年12月27日 23:29
tanoさん、コメントありがとうございます。
>何らかの意識を統合する形として生み出された
次回は「まつり」にも焦点を当てていきますが、やはり集団内の仲間の意識をより強く統合する必要から出てきていると思います。その起点には、切実な不全があったであろうと思います。土偶からまつりへ、うまくつなげていけたらと思っています。
>それぞれの土偶の表情をじっと見ていくことが意外にもその(謎を解く)きっかけになるように思います。
縄文人の置かれた状況に同化して、見つめていたら、何かを観取できるかもしれませんね。てるてる坊主というのがありますが、あれだけを見て晴天への願いを汲み取るようなものですね。まあ、それよりはなんとかなりそうですが。
投稿者 くまな : 2010年12月28日 01:23
凄く勉強になりました。
ありがとうございます。
投稿者 りら : 2012年1月22日 11:19
長野県に住んでます。陶芸を生業としています。陶芸家として、土偶や縄文土器は実に魅力ある作品です。
そうした作品」を生み出したパワーって何だろう?
常々考えています。
本当は感じる事が大事なんですね。
投稿者 古越礼子 : 2013年4月4日 00:20
古越さま、コメントありがとうございます。管理人のtanoです。2年以上前の記事ですが、こうやってコメントをいただける事に喜んでいます。
縄文土器や土偶を生み出したパワーって何でしょう?
非常に本質的な質問ですね。
私もよくわからないのですが、縄文人が自然のエネルギーや波動に非常に感度がよく、それらとの交信で得たものを仲間や集団に伝え、固定する為に表現したのだと思います。
特に言語がない社会であり、そういった造形物には言語的なメッセージも入っていたことでしょう。
だから貴方の何を伝えたいのかを「感じる」という理解の方法は正しいのだと思います。またコメントお待ちしています。
投稿者 tano : 2013年4月7日 14:08
縄文ブログの土偶記事をまとめていただいてありがとうございます。かなり整理されています。
土偶はやはり謎だらけですが、逆に言えばこの意味を考えていく事が縄文時代に同化していく過程だとも思います。
呪術だったり守り神だったり、様々な説が考えられますが、やはり土偶に込める縄文人の想いとは切実な期待だったのだと思います。それぞれの土偶の表情をじっと見ていくことが意外にもその(謎を解く)きっかけになるように思います。
答えまで至っていませんが何らかの意識を統合する形として生み出されたのは確かだと思います。
この投稿からさらに次の追求が繋がっていく事を期待しています。