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2010年08月20日

シリーズ「インドを探求する」第13回~インドにおける可能性の実現基盤

IT関連産業を牽引役に高度成長を続けるインドですが、まだまだ多くの人が貧困に苦しみ、社会的下層民に対する差別意識も残存しているというのが、現在のインドの姿ではないでしょうか?
ダリット(不可触民)のおかれている現状については こちら を参照してください。
この間、追及してきたように、インドの序列原理の根幹には、カースト制度があります。
このカースト制度は、圧倒的多数を占める下層民の私権追求の可能性を封鎖することによって、私権をめぐる争いを制御してきたという側面と、下層民の社会に対する当事者意識に蓋をし続けたという側面を併せ持ちます。
そこで、今回は、この視点からカーストの歴史をおさえなおすと同時に、経済成長にともなう大衆の意識状況の変化→政治状況の変化をおさえ、今後につながる可能性の実現基盤を探ってみたいと思います。
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インドのカースト制度とダリット 《引用・編集》
○カーストの歴史【支配観念の捏造と洗脳】

カースト制度の起源は不明瞭であるというのがほんとうのところである。しかし、アーリア人の移動仮説のいくつかの解釈が、カースト制度が侵入の産物であったことを理論づけている。それは、アーリア人が自分たちのために、より高いカーストを用意して、彼らが征服したより暗い皮膚をした在来の住民をより低いカーストおよび不可触身分に降格させたという考えである。
つまり、アーリア人が先住民を支配するために、ヴァルナ制が作られていったと思われる。すなわち人種差別・民族差別がカースト制の根幹にあった。

後期ヴェーダ時代に宗教の名のもとに、力と権威の地位にある人々によってカースト制度は正当化され利用された。彼らの目的は、バラモンの支配を貫徹して、支配階級への競争を抑えることであった。一つの世代からもう一つの世代まで口伝形式でヴェーダの知識を受け渡す伝統のおかげで、ヴェーダの呪文が操作され、いくつかの新しい詩が、カースト制度を正当化しバラモンの支配権を確実にするために如才なく故意に初期のヴェーダ聖典に組み入れられた。
リグ・ヴェーダの巨人の歌は確実にリグ・ヴェーダへの後日の添加であるとされる。
カースト制度は、義務しか持っていなかった圧倒的多数の下位カーストを社会から疎外し、彼らの時代の出来事に無関心で無関係にした。

○ダリット(不可触民)の起源【支配階級から最も遠い人々】

ダリットの起源は、カースト制度と同様に不明瞭である。不可触の考えが生まれるのは、マヌ法典以降ともいわれる。紀元後3・4世紀になっても、あらゆる賤民が不可触民ではなく、いわゆる、不可触民という概念が確立するのは、インド中世の紀元後8~11世紀頃であるともいわれている。マヌ法典や仏典にはっきり現れているように、差別すべき人間を差別することこそが規範であり道徳であった。カースト制では、同一カースト内部の結婚が厳重に強制され、他のカーストと混血したものはその共同体から追放された。

元来、狩猟文化(「殺生」、皮はぎ、肉食)と密接なつながりを持っていた文化的に異質な集団が、定住農耕社会の周縁に組み込まれて、人々の忌避するような仕事をするようになり、さらに血統意識が加重されることによって、代々穢れがみについて、けっしてのぞくことができない存在という、賤民観念が生まれたとも考えられている。

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○大衆の意識状況の変化→カースト制度の変化

ダリット出身の初の大臣としてインド憲法を起草したアンベドカルに導かれた新仏教徒が、1960年代以降の解放運動の中心だった。新仏教徒は、1970年代はまだ600万ほどだったが、今日では約1000万人に達している。キリスト教徒やイスラム教徒のダリットも、それぞれ独自の立場で解放運動をやっていたが、1992年に宗教の各宗派を統合したダリットの全国連絡会議「ダリット連帯プログラム」が初めて結成された。

こうした解放運動や時代の進展につれてカースト制度も変化してきている。インド憲法は、不可触民制の廃止を宣言し、「指定カースト」、「指定部族」、下級カーストの「後進諸階級」の三集団に対する特別措置を設けることを定めた。すなわち、教育と公的雇用と議会議席の三分野で、留保システムの実施が宣言され、国家が定めた委員会によって次々に新政策が実施されてきた。
1991年に国民会議派のナラシマ・ラオ首相が市場の自由化政策を導入し、新産業路線を実施した。国家による経済統制を大幅に緩和して、外国からの投資に門戸を開いた。IT関連産業の開発を最優先課題として、大学を各地に増設した。その結果、国内総生産は6%をこえる高度成長が毎年続いた。外貨準備高も増え、一人当たりの国民所得も倍増した。知識人階層が増え、アメリカなど外国への留学生も増大した。社会意識や文化的価値観の分野でも、大きい構造的変動をもたらしつつある。ラマ政権は文化面における開放政策も実施した。テレビを中心としたメディア改革で、報道管制は大幅に緩和され、国営TVだけだったのが今では30チャンネルをこえるTV番組が放映されているという。
大学でも人権教育が始まり、世界の新しい情勢を学んだ若い人たちは、カースト制そのものを原理的に問題にするようになった。
戦後インドを指導してきた「国民会議派」は、今日では国会で過半数をとれず、下層カーストとダリット出身の議員が多い「中道・左派グループ」が進出してきている。残りは、北インドの上位カーストを中心に組織されたヒンドゥー教至上主義を唱える「インド人民党」があり、パキスタンとの紛争や原爆実験など保守系の民衆を煽って国家権力を握っている。

誰が大衆の当事者意識に蓋をしているのか?その答えは、明白ではないでしょうか。
既に、日本が経験してきたように、【貧困の消滅→私権の強制圧力▼→序列原理の無効化】は普遍的な構造です。
そこで求められるのは、旧観念に代わる新しい構造認識=答えに他なりません。
支配階級から最も遠い位置に生き続けてきた人々こそ、「インドなるもの」=共同体的体質を残存しており、これからの恐慌→脱市場社会で答えを出せる可能性を秘めた層ではないでしょうか?
ここで、もうひとつ紹介しておきたい記事があります。
インド・・・村議会議員の50%を女性枠に 《引用》

インドの民主主義を根幹から支える制度に、パンチァヤット制がある。元来、南インドで根付いた村落共同体の治世制度だが、その後、全インドに広まった。
1993年の憲法改正で、村議会に相当するパンチァヤットの選挙を、州政府の責任において実施する事が義務化された。国会から村議会に至るまで、全ての議会議員を民主選挙で選出する民主制度を、全インドに徹底する為である。但し、選挙実施に関しては州政府の自主性を尊重している。従い、憲法改定当初は、「州政府」や「地場政党」の「都合」や「打算」など、何らかの理由で選挙は遅れ遅れになり、選挙実施は州によりまちまちであった。現在は、ほぼ全州でパンチャヤット選挙が行われ、代表(議員)の総数は200万人を超えている。
パンチァヤット(Panchayat)とは、サンスクリット語のパンチ(=5)、ヤット(会議)、村落共同体で選ばれた5人の賢人・長老による会議が語源で、共同体構成員はパンチァヤットの決定に従う制度である。個人同士の諍いや、村同士のトラブルも、パンチァヤットが治めてきた。今では、村落共同体の様々な課題を議決する議会になっている。連邦共和制のインド、州政府の下に、県レベルの議会、郡レベルの議会、村落レベル(1村ないし複数の村から構成する)議会がある。
1993年の憲法改正で、パンチァヤットの議席の三分の一は女性枠と規定したが、現在、女性枠を50%に引き上げる憲法再改定が検討されている。州によっては50%を女性枠と規定し、既に実行している州もある。「指定カースト枠」「指定部族枠」の「国会議員枠」や「公立学校の優先入学枠」など、人口比で枠を設定し、貧民の権利を優先しているインド民主主義、パンチァヤット制の規制再改定で、女性枠を人口比=50%にし、女性の権利を留保しようとしている。徹底して「制度上の平等性」を追及する姿勢である。女性差別の国と思われているインド、制度上は低カースト層と女性を優遇する国になってきている。
農村=村落共同体の人口は、約8億人、その村にも着々と近代化の波が押し寄せつつある。都市と旧態依然とした農村社会の狭間に置かれた農民の子弟、社会現象として「中途半端な農村雑業層」が増え始めている。「農業専業」でも「都会雑業請負」でも生計を立てることが困難な階層も増えてきている。正に「労働予備軍」である。 中央政府の「農村・農民・農業支援策」「教育政策」が、末端まで浸透し、確実に実施される為には、パンチァヤットの機能の充実化が不可避となっている。女性の実務能力に期待しているようだ。課題は、パンチァヤットの機能を十分に発揮できるようにさせる財政支援、財政システムの構築だろう。

この憲法再改定を支えているのは、西洋流の平等・男女同権などという、底の浅い思想ではないのだと思います。
きたるべき経済破局下では、【秩序は維持されるのか?】が極めて重要な意味をもちます。このとき、貧困下に置かれ続けながらも、村落共同体の成員の力で乗り越えてきたしたたかさこそが、最大の武器となります。
世界は、私権社会から共認社会へと大転換し、あらゆる集団が共同体化を加速していくことになるでしょう。そこでの活力源は、まわりとの共認充足です。だからこそ、充足性・肯定視を得意とする女の人たちの声を羅針盤にしようという成員の潜在意識が強く作動してきたのではないでしょうか。
残存している《母系制社会で培われた女たちへの役割期待と共同体的資質》。これこそが、インドにおける可能性の実現基盤なのではないでしょうか?

投稿者 naoto : 2010年08月20日 List  

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コメント

なるほど♪どの時代でも受け入れ体質であったということがよくわかります。特に、仏教と儒教が融合したという当りは、とても興味深いですね。異宗教が共存してしまうなんてことは、世界でも珍しいのではないでしょうか^^

投稿者 さーね : 2010年12月16日 19:09

日本をはじめ、各国とも自国の歴史を自国の都合の良いように脚色している面が多々あります。
学校では教えないため、通常は分からない歴史の事実を解明していくことは、これから私たちがどのように社会を作っていくかを考える時、極めて重要だと思います。

投稿者 sinkawa : 2010年12月16日 19:14

何段階にもわたって、日本には朝鮮から渡来人がやってくるのですが、最後まで征服されることはなかった。
これはほんとに不思議です。
この理由と縄文体質の継承は大きく関わりがあるとおもいます。

投稿者 2U : 2010年12月16日 21:46

>渡来人すら受け入れ、のみこんでいった縄文気質ですが、当然変化した部分もあります>渡来人すら受け入れ、のみこんでいった縄文気質ですが、当然変化した部分もあります< この縄文気質が、2500年以上前大陸からの渡来人による支配以降でも、消えることなく現在まで連綿として残存していることは、本当に驚異ですね。 その要因はやはり縄文時代1万年に培われた本源性にあるように思えてなりません。

投稿者 Ryujun : 2011年1月8日 23:14

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