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2007年08月02日
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
今晩は さーねです 😀
今日は、縄文のなんでの縄文時代の都が1500年も続いたって本当?を解き明かしてみたいと思います
その代表が三内丸山遺跡ですが、まずは、るいネットのマスコミが歴史的事実も歪めている・・・三内丸山遺跡の実態・・・を読んでみました 🙄
確かに、何かおかしい… 🙄
このお題は、歴史を学ぶという点でとても示唆に富んでいます 😛
なかなか面白いお題です 😛
頑張ってみましたっ
大きい・長い・多い~三内丸山遺跡…
今、僕達に必要なのは事実と自然の摂理 😛
一緒に追究しましょう
今日は、「北の文明・南の文明(下)-虚構の中の縄文時代集落論-」を参考にさせて頂きました 😛
大きく「文明論」と「成熟した社会」との2つの見方があるようです。
まずは、三内丸山を”縄文都市-文明論”として位置付ける論旨です。
「都市や国家、文字、金属器などをそなえていなければ文明とはよべないという概念の下では、縄文文化はいつまでも原始的で野蛮な段階に甘んじざるをえない。しかし、縄文時代の社会は、自然と共生するというこれまでの文明にはなかったもう一つのすばらしい文明原理を持っていた。一万年以上にわたって縄文時代の社会でつちかわれた自然との共生・循環・平等主義といった文明原理こそが、地球環境の危機の時代に直面した現代人が求めているものなのである。「縄文文明の発見」とは、地球環境の危機に直面した現代人が生き残るための新たなる文明像の発見でもあるのである。国家や文字そして金属器の発生に文明の誕生を求める文明概念では、20世紀後半の近代工業技術文明の危機に活路をみつけだすことができないのである。」
縄文文化に対して野蛮であるとの見方は、歴史が「文明ありき」になっている可能性が高く、文明に対する対極として初めから否定的に捉えているように感じます
一方、より成熟した社会として位置付ける論旨は、
「三内丸山で注目された巨大木柱や、長期間にわたって積み上げられた盛土、ヒスイなどの交易品、クリの栽培など、縄文時代の豊かさをうかがわせる事実は程度の差こそあれ、これまでに各地の遺跡ですでに発見されている。三内丸山遺跡は冷静に見れば、これらの総合に過ぎず、「狩猟採集民にしては成熟した社会を築いていた」という、近年になって定着してきた縄文文化に対する理解の枠の中に十分おさまるものではないか。」
僕自身は、後者の捉え方がしっくりきました。この時期は気候が温暖化(海面上昇)しつつ、成熟した=外圧に対しても適応しやすくなったor適応能力が上がったと考えられます。それが、三内丸山の特徴として現れたと考えるのが自然ではないでしょうか 😉
三内丸山を文明論として捉える上での特徴は、以下。これについて考えてみたいと思います
>1巨大木柱痕や漆、ヒスイ加工に象徴される優れた建築・加工技術の存在、
⇒巨大木柱の写真を見ると、どうも「文明論」的に捉えがち。文明として捉えると、あたかも支配者がいてつくりだされたかのようにみてしまいます。そうではなく、まず縄文の集団にとって、祈りや祭りは集団の大事な営みであり、統合軸であったはずです。必要だからこそ、このような技術が備わったのだと思います。
>2クリやヒエなどの栽培技術の存在、
⇒どうも栽培を技術と捉えること自体がおかしいような気がします。自然の摂理に学び、真似をしてみて、必要な食料を確保したのでは
>3住居、墓、倉庫、やぐら、ゴミ捨て場、粘土採掘穴などの集落の各施設の計画的配置、
>4通常一集落が消費する量を超え土器や土偶などの大規模な生産
⇒気候が温暖化し、人々の寿命△→集団の人口△→配置するのが普通だと思います。
⇒人口が増えれば、当然、土器・土偶の生産も多くなるのではないでしょうか。
>5ヒスイ、アスファルト、黒曜石などからうかがわれる他地域、遠方との交易、
⇒黒曜石やヒスイは祈りや祭りの道具に。アスファルトは狩猟のための矢じりの接着等に使用された。いずれも必要なものであったと考えるのが自然では
>6幼児の埋葬からうかがわれる再生観念の存在、
⇒幼い子が亡くなるということは、縄文のような仲間第一の集団にとっても、悲しく・つらい出来事であったと思います。ゆくゆくは集団の成員として活躍していくはずだった…そんな想いを込めて、埋葬したのだと思います。
>7大形の住居や墓地のあり方などからうかがわれる階層社会の可能性
⇒集団統合上、優れたリーダーから女性・子供までいたはず。だとすれば、集団がまとまるために、能力ヒエラルキーができたはず。単純に階層と捉えるべきではないと思います 🙄
いずれも、必要であり、彼らにとっては至極自然なことだったのではないでしょうか?逆に、「文明論」的に捉えれば、その背景を見誤るのではないかと思います。この時点で「都」と捉えるのは不自然。
では、「1500年続いたか 」
これは、僕がたまたま埋蔵文化財調査に立ち会った時に、調査員に方に聞いたことです 😉
>この場所では、縄文から近世まで一通り、住居跡や出土がありましたよ~
古代から近世で、約1,800年。同じ場所で歴史が積み重なっているということです。もっと言えば、人が住みやすい場所には、例えば、1,500年の間に様々な人がその場所に住むということ。
”文明と捉えて=都”が1500年も続いたって本当?というお題に対しては、僕は幻想であり、ウソだと思います。しかし、1500年に渡り縄文人がそこに住み、適応してきたことは事実であると思います。
それにしても、三内丸山のマスコミの取り上げ方や、発見と称して文明史観的な学者の論理には、非常に違和感を感じます 😡 やはり、事実は何か?本当の歴史とは?みんなで積み重ねていくことが大事だと感じました 😛
投稿者 sawatan : 2007年08月02日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2007年8月18日 00:29
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=84204 読みました。
私が勉強不足でした。すみません。
まさに私が今後、追求していこうとしていた内容(海進、海退の関係、集落の規模、移動状況など)でした。
灰塩の更に前までは、干貝だったんですね!
ただし、改めて人が生きていく為に必要な“営み”(例えば塩)を純粋に追求していけば答えが見えてくるもんだな~と思いました。上記投稿は初めて知ることも多くありましたが、私が思い描いていた仮説とズレはなかったです。
投稿者 mrran : 2007年8月18日 12:12
製塩を始めるようになったのは縄文海退が関係しているようです。以前私が投稿した加曾利貝塚にその痕跡があります。
時代は縄文中期から後期にかけて、ちょうど縄文の温暖化が進行した頃です。縄文時代、塩は確かに海から作られたようですね。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=84204