2007年8月16日
2007年08月16日
大英帝国の基礎を築いた海賊
ちょっと唐突かもしれませんが、今回はいきなり15~16世紀のイギリスにやってきてしまいました。
イギリスは、7つの海を支配したと言われましたが、当初は海賊を利用して世界の海に乗り出し、そしてスペイン無敵艦隊を撃滅して制海権を握っていきました。
・・・・“ヨーロッパの基層:ヴァイキング=海賊が支配層を形成した”の続編です。以前中途になっていた市場の主役と形成史を扱いつつ、折を見て中国の記事も書きたいと思います。
→まずは、
フランシス・ドレーク(1543頃-1596)
投稿者 ihiro : 2007年08月16日 Tweet
2007年08月16日
弥生時代の戦争は、近隣の集団どうしが戦った
😀 くまなです
前回の投稿弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がったの続きです。
戦争による遺物(刺さった武器とその産地)から、各地で戦ったのは、同じ地域の集団同士であることがわかります。そこからは、一部の集団が侵略したのではなく、戦争の圧力が玉突き的に各地に広がっていったということを示します。
九州北部の場合、遺骸に突き刺さった武器は、ほとんどが磨製石剣・石戈(か)、または青銅の短剣などの金属製武器だ。磨製の石剣や石戈は、材質から形から、まずまちがいなく九州北部産といえる。青銅の短剣は、中国・四国や近畿にもあるが、圧倒的に普及率が高いのは、やはり九州北部だ。首を切るときに使ったと思われる鉄の刀も、この時期には、おそらくこの地方にしかないものだろう。九州北部の戦死者・戦傷者は、九州北部の人間の手によるものと結論できる。
他の地方はどうだろうか。岡山市清水谷遺跡の木棺に眠る人物に射ち込まれたらしい二十本の打製石鏃は、柳の葉の形になかごがついたタイプで、香川・金山産のサヌカイト製であることから、岡山平野で作られたものとわかる。射ち込んだのは、おなじ岡山平野の人間だろう。
大阪府四條畷市の雁屋遺跡の木棺から出た十二本の打製石鏃も、この地方によくあるタイプで、二上山のサヌカイトでできている。奈良市に四分遺跡の女性に刺さった打製石鏃もそうだ。さらに、京都市の東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる七~八本の磨製石剣は、指した相手の出どころを、さらに細かくしぼりこめる資料だろう。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られるからだ。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。
このように見てくると、弥生時代の第二期抗争は、おなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうしの争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘だったのだ。
では、戦争に際して縄文人はどうしたのでしょうか?
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投稿者 kumana : 2007年08月16日 Tweet