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弥生時代の戦争は、近隣の集団どうしが戦った

😀 くまなです
前回の投稿弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった [1]の続きです。
戦争による遺物(刺さった武器とその産地)から、各地で戦ったのは、同じ地域の集団同士であることがわかります。そこからは、一部の集団が侵略したのではなく、戦争の圧力が玉突き的に各地に広がっていったということを示します。

九州北部の場合、遺骸に突き刺さった武器は、ほとんどが磨製石剣・石戈(か)、または青銅の短剣などの金属製武器だ。磨製の石剣や石戈は、材質から形から、まずまちがいなく九州北部産といえる。青銅の短剣は、中国・四国や近畿にもあるが、圧倒的に普及率が高いのは、やはり九州北部だ。首を切るときに使ったと思われる鉄の刀も、この時期には、おそらくこの地方にしかないものだろう。九州北部の戦死者・戦傷者は、九州北部の人間の手によるものと結論できる。
他の地方はどうだろうか。岡山市清水谷遺跡の木棺に眠る人物に射ち込まれたらしい二十本の打製石鏃は、柳の葉の形になかごがついたタイプで、香川・金山産のサヌカイト製であることから、岡山平野で作られたものとわかる。射ち込んだのは、おなじ岡山平野の人間だろう。
大阪府四條畷市の雁屋遺跡の木棺から出た十二本の打製石鏃も、この地方によくあるタイプで、二上山のサヌカイトでできている。奈良市に四分遺跡の女性に刺さった打製石鏃もそうだ。さらに、京都市の東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる七~八本の磨製石剣は、指した相手の出どころを、さらに細かくしぼりこめる資料だろう。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られるからだ。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。
このように見てくると、弥生時代の第二期抗争は、おなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうしの争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘だったのだ。

では、戦争に際して縄文人はどうしたのでしょうか?
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弥生時代の戦争に、縄文人も巻き込まれていった
戦争の主な武器は、九州では朝鮮系様式である磨製石器がほとんどであるのに対して、その他の地域では縄文以来の打製石器の技法を用いて、朝鮮系様式の武器をつくっている。そのことから、各地の土着の人々が次々と戦争に巻き込まれつつ、戦争への対応を余儀なくされていった様子が伺われます。

2300年前頃になると、西日本では環濠集落とともに、人を倒すための武器が出てくる。ただし、この地方の武器は、九州北部のものとは、すこし違う。九州のものが石を磨き出しているのに対して、この地方のものは、石を打ちかいて形を整えるという、縄文以来の伝統技術で作られている。一方、朝鮮系の磨製石鏃や磨製石剣など、渡来者ゆかりの人々がじかにもちこんだ武器はまれにしかない。
しかし、石剣と石鏃、つまり短剣と弓矢という組み合わせ自体は、渡来者がもちこんだ武器のセットと同じだ。一見縄文くさく見える打製石剣や打製石鏃も、用途は朝鮮系の磨製石剣・磨製石鏃といっしょで、同じ戦術をみたすものだ。ためしに打製石剣と朝鮮系磨製石剣とをならべてみると、技法の差は別として、刃や柄の形や長さは意外によく似ている。

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中国・四国や近畿・東海で、再び戦いが激しさを増した証拠が出揃ってくるのは、第一期抗争から数世代を経た、2100年前頃だ。もっとも明らかなのは、大形の打製石鏃の発達と増加で、長さが三センチメートル以上、ときには六~七センチメートルにも達するような大型の石鏃が、一つの集落からときに何百点も出る。
また、打製石剣も量産され、磨製石剣も加わる。さらに、九州北部ほどではないが、青銅や鉄の武器が現れ、用いられた痕跡がある。
九州と同じように、戈を石で作ったものも出てくるが、九州のものが磨製であるのに対し、こちらのものは打製石戈だ。少しずつ伝わってくる青銅や鉄の武器の影響を受けて、伝統的な打製の技術によりながら、石の武器の開発も続けた様子がよみとれるだろう。石の武器が減り、武器の本格的な鉄器化がはじまるのは、九州北部よりもやや遅れることになる。

縄文人は、戦争の圧力に際して、敵の武器を真似て身の回りの材料と技術を駆使して武器を開発していった。武器の様子を見ると、その涙ぐましい努力がイメージされます。
(引用・参照は、松木武彦「人はなぜ戦うのか」より)

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