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2009年11月21日

アイヌ民族は縄文人の末裔か?(1) アイヌの歴史と文化(基礎データー編)

こんばんは。 yuyuです。
 
前回のエントリー 新テーマ「アイヌ民族は縄文人の末裔か?」 において、シリーズを始めるに当たって仮説提起がなされています。
アイヌ人は縄文人とは必ずどこかで繋がっているのではないか。
例えDNA上での接点がないとしても、縄文時代以降続いた続縄文、擦文時代を通じて長く続いた縄文的共認を塗り重ねて以降のアイヌ文化が成立している。・・・・と仮定してこのシリーズを始めていきたい。

はたしてこの仮説は正しいのか? このシリーズを通じて、その全貌を少しずつ明らかにしていきたい思いますが、まずは、最初のとっかかりとして、今回は北海道とアイヌの歴史・アイヌ文化の概要を大つかみで 押さえていきたいと思います。
 
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<夷酋列像> 北海道デジタル図鑑より
  
それでは、最初に現代に至るアイヌ民族の歴史を、見ていくことにしましょう!!
 
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■北海道とアイヌの歴史
 
概要
 
旧石器及び縄文時代(紀元前3万年~3世紀頃)
古モンゴロイドが北海道に定住。狩猟採取、本州縄文時代と共通の文化。
 
続縄文時代(3~7世紀頃)
本州が弥生時代に移行した後も縄文文化を継承。後期に東北北部まで南下し和人と混在する。同時期に北方よりオホーツク文化が北海道に南下。
 
擦文時代(7~14C世紀頃)
 成立期(7~9世紀)
 和人が北海道まで移住。和人の農耕文化を取り入れ擦文文化を生み出す。
 
 確立期(9~12C)
 擦文文化が道北を占領するオホーツク文化の領域に進出。
 オホーツク文化はトビニタニ文化に変容後、擦文文化と同化消滅。
 
 後期(12~14世紀)
 北海道全域拡大から、さらにサハリンにまで進出。ニブフや元とも交戦。
 和人との交易拡大。鉄鍋や漆器等を大量に移入。土器作りが途絶え、
 擦文文化の和人文化の取り入れが進みアイヌ文化へ変容。
 
アイヌ文化(14世紀~)
アイヌ文化成立。松前、函館を通じ、本州和人の商品流通圏に取り込まれていく。
 
1624~44年頃:商場知行制の成立。アイヌ首長制が成立し、地域的な広がりを持ったアイヌ集団が形成される。
 
1643年:ヘナウケの蜂起
1669年:シャクシャインの蜂起
1789年:クナシリ・メシナの蜂起
--------------------------------
1799年:幕府による蝦夷地の直轄化と同化政策。
1869年:明治政府による北海道への改称、日本国家の直接支配。
アイヌを平民として日本国民に編入。
 
 
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<年表>アイヌの歴史 瀬川拓郎著より
 
  
通史
上記年表を通史として見ていきます。 
【縄文時代~続縄文時代】
縄文時代~漁撈採取・狩猟生産を中心とした自給自足集団。この時代にすでに現在のアイヌ人の祖先が形成されていると言われている諸説もあります。
 
続縄文時代~本州の弥生化が進行する中、北海道は縄文文化を継続させていきます。
後期には寒冷化によって北海道から東北へ移住する集団も出てきます。同時にサハリンを拠点としていたオホーツク文化が道北から入り込んできます。アイヌと生活圏が混在し後のアイヌ文化はこの時代にオホーツク文化圏の特徴である鉄器文化としての影響を受けていると思われます。
 
【擦文時代】
7世紀になり、東北へ和人が深く侵入し支配するようになると、海を越えて東北の蝦夷や農耕技術を持った和人が北海道に移住してきます。ここからが擦文時代に入りますが、それまで狩猟採取生産、土器生産中心であったアイヌ民族はこの時代に農耕を取り込み、土器も擦文土器へさらに鉄器へと変化していきます。
 
7世紀から14世紀までの擦文時代はアイヌ民族がサハリンまで居住範囲を拡大し、最もアイヌ民族の人口が拡大し、生活様式が多様になった時代でもありました。また和人の移住により得た本州との交易のルートも活用し、生活必需品や鉄と引き換えに貴重品や食糧を送る交易経済を自立させていきました。
 
サハリンへの進出は同時に元や明との境界を接する事になりますが、たまたま元から明への国家移行期で、この地域の制覇者が空白期であることを背景にワシ羽の狩猟をサハリンの奥深くニブフまで移動して活発に行い、本州への交易資産としていきました。
 
通史で振り返れば、この時代は後のアイヌ文化と言われる時代よりむしろ、アイヌ民族が北海道においてもっとも豊かだった時代であった可能性があります。
【アイヌ文化】
擦文時代が終焉を迎える頃には、状況は一変します。 
国として勢力をつけた明からは朝貢を求められ、サハリンの生活圏も制約を受けるようになり、一方、本州からは14世紀後半には松前藩が北海道に拠点を設け、北海道の資源を集めるようになります。
松前藩は日本海側を中心とした商人として活躍し、函館―十三湊を拠点に若狭を通じて上方まで道産の珍物や貴重品を送りこむようになります。それまで複数の和人集団を対象として交易を有利に展開していたアイヌ民族は、松前藩に窓口が制限されて以降、本州からの不利な交易に苦しむようになります。
 
さらには江戸時代に入り、道内深く入り込んできた松前藩に生活圏も追われ、アイヌ集団が管理されるようになり、一部は半ば奴隷として労働支配されるようになっていきます。まさにアイヌの冬の時代です。
 
この14世紀から始まる時代をアイヌ文化と読んでいますが、実際はアイヌ民族への交易という名の搾取が始まった時代でもあり、アイヌ全盛の時代ではありませんでした。たびたび本州勢力に対するアイヌ民族は叛乱しましたが、その都度鎮圧され、1799年の幕府の同化政策により、正式に直轄支配されるようになります。
 文献では、土器文化から鉄鍋文化への移行をアイヌ文化への変容、時代区分としていますが、むしろ鉄鍋等、生活用品等を本州からの移入品に依存するようになった時代であり、これ以降の、和人の商品流通圏に組み込まれ、和人の都合に振り回された時代を、和人側から見て、アイヌと呼んだのではないでしょうか。
逆にこの時代、歩を合わせるようにアイヌ民族自身は独自性を高め、より孤立していくようにも見えます。
 
ただ、歴史を振り返れば擦文時代にすでに交易体質に変化していったアイヌ人の転換は、以降の歴史への伏線であったのではないかとも見て取れます。それを促したのがアイヌ人へ影響を与えたオホーツク文化である可能性も高いのかもしれません。
アイヌ民族の本質を見ていくうえでオホーツク文化、擦文時代をさらに見ていくことが重要だと思われます。 
  
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 <文化圏の変遷> アイヌの歴史 瀬川拓郎著より
 
 
  アイヌ民族のエトセトラ編
  
○人口
現在のアイヌ民族の人口は「2006年ウタリ生活実態調査」によれば、2万3千人となっている。15世紀アイヌ文化初期の頃には北海道で50万人いたともされており、数度の戦争と本州からの搾取、さらに19世紀の本州との交流による伝染病の蔓延によって人口を減らしていった。
 
○人種的特徴
ひげ、体毛がきわめて濃い。皮膚の色は淡褐色で身長は現代アイヌ人で160.5センチと通常の日本人と大差ない。眼こうが深く、一般的にはヨーロッパ人種的な印象を与える。
 
○宗教
自然崇拝が基本で、多神教の体系をもっていた。
また、熊送り儀礼(イオマンテ)は高度に発達した文化事業で、現在まで連綿と続けらてきた。熊についてのこの儀礼は間宮海峡を挟む諸民族で見られ、捕らえた小熊を飼育して送る。単なる狩ではなく、親子連れの熊を対象とし、小熊の捕獲を行う為高い狩猟技術が必要とされる。
 
○生産様式
アイヌ民族の基本は各時代を通じて狩猟、漁労、採集など自然採取経済を中心としており特にサケマス漁の比重が大きく、擦文時代から取り込んだ農耕はあくまで副次的なものであった。
さらに特筆すべきは交易である。擦文時代後期から狩猟は交易の為の特定種に特化していく特徴を持つようになり、本州から生活必需品を移入していた。
鉄、青銅器、絹布、漆、コメなどを移入し、代わりに毛皮やわし羽といった貴重品に、昆布や鮭、ラッコといった消費財を加えていった。自給自足で生活していた集落もあったが、多くの集落は交易による銭貨を得ることで生活の補填をしていた。
 
○集落の規模と階層性
アイヌはかつては血族によるコタン(部落)によって構成されていた。本家の長老が一番大切な祭事を司る。漁や狩の指導、他部族との交渉にそれぞれたくみのものがあたる。四季を通して獲物の豊かな川筋や海岸にコタンをつくり、各地に獲物をもとめて出稼ぎしてはまたコタンにもどる。コタンは大きくて20軒、普通は5~10戸の家で一部落をなし、一夫一婦制の夫婦とこどもが家庭生活を営む。まれに一夫多妻、しかも多くの家族が同じ家に住む例もしられているが、それはむしろ例外で特殊な立場にある者の場合と思われる。
婚姻も多くはその血縁の中で行われた。血族関係がかつてのアイヌの集団の基本形態であった。
和人との交流が始まる擦文時代を向かえ、定住が長くなるにつれて、血族の混在が行われ、血族より地域的な関係が強くなる。同時に自給自足の共同体から交易を中心とし、財貨獲得を軸とした新しい部落に変化していく。アイヌの社会にも階層分化が始まり、これをたくみに利用したものがニシパ(富めるもの)と呼ばれる人になった。
 
■参考文献
 日本史リブレット アイヌ民族の軌跡 浪川健治著
 エミシ研究 田中勝也著
 北海道の歴史 県史シリーズ 榎本守恵、君尹彦著
 アイヌの歴史 瀬川拓郎著

投稿者 yuyu : 2009年11月21日 List  

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コメント

現在の歴史学には、生産様式が資本や権力に左右される私権社会のモノというような根本的な誤りがあるんだと感じます。だから、縄文時代の生産様式は、しばしば野蛮だと言われるのかもしれません。
重要なのは、生産様式とは人々が生きるために必要不可欠なものであり、どの時代にもあったのだと捉えることが大事だと思います。

投稿者 さーね : 2010年1月28日 21:21

農業という生産様式が私権社会の一形態であるなら、どうして日本の農家はこれほど長く共同体を継続できたのでしょう。
農業を使って支配しようと考えた仕組みがまさに私権社会そのものであり、実際に自然を相手に汗水流して生産している彼らは嘘もごまかしもできません。
しかしややっこしいのは、支配と稲作がセットになっていたかどうかです。
弥生時代に農業技術を持ち込んで各地に広げていった渡来民は最初から支配の仕組みを持って登場したのでしょうか?それとも一定稲作が拡大してから、後に来た大陸の負け組み支配者がその手法を使って農民を支配しようとしたのでしょうか?
私は後者だと思いますがいかがでしょうか?

投稿者 tano : 2010年2月2日 00:45

 支配と稲作がセットになっていたかどうか
やがてセットになることを、充分渡来民は認識していたと思います。
消費されるコメが充分に足りるように、余剰米は蓄えられるでしょう。そして民衆は豊作を祈願する。
備蓄がやがて富となり、更なる蓄積のために、土地を広げる。これは、いたって自然な流れだと感じます。
富の拡充は、言ってみれば土地の拡充であり、これを実行出来た者が、ムラの統治を行う。
わたしは、豊作祈願が、現代人が想像する以上に、重要視されていたと思っています。雨、太陽光等は、人の力を超えた所にこそ、すがるべきもの、他に方法など無いと古代民が考えるのは当然ではなかったか、という事です。
ムラ(土地)を統治する者と、豊作を祈願する者、このセットが権力を生み出したポイントになると考えます。

投稿者 milktea : 2010年2月10日 15:32

北海道の同人誌「コブタン」に須田茂氏が「近現代アイヌ文学史稿」を連載中。
アイヌ関係研究者から、私のところに「雑誌を読みたいので、送ってほしい」と問い合わせが続々きています。36、37、38各号100枚ずつの大原稿連載中です。手元にありますので、ほしい方は連絡を。また、今月末には39号が発刊され、ここに須田氏は連載④の百数十枚を書いています。このようなまとまった研究内容は、日本では初めての壮挙でしょう。

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投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2015年2月8日 16:47

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