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2010年08月30日

【縄文に何を学び、何を創り出していくか~第1回】

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【縄文の集団に学ぶ】シリーズも今回で10回を迎えました。
縄文時代の集団の在り様、集団統合の様子について追求してきました。
これまでの記事は次の通りです。是非この機会に読んでみて下さい。
①『縄文を学ぶ位置付け』 第1回
②『縄文を学ぶ位置付け』 第2回
③『縄文集落を解明する』 第1回
④『縄文集落を解明する』 第2回
⑤『縄文集落を解明する』 第3回
⑥『学者による集落論』  第1回
⑦『学者による集落論』  第2回和島家族論って本当?
⑧『学者による集落論』  第3回水野家族論って本当?
⑨『縄文から弥生にかけて何が変わったか』 
  
  
このシリーズのまとめとして、縄文時代を単なる知識としてではなく、行き詰った市場社会・私権社会を突破するヒントとしてご紹介したいと思います。
第10回目の今回は、これからの新たな社会作りに向けて縄文から学ぶべきはどのような点なのか、をお届けしたいと思います。
そして次回、このシリーズ最終回では、縄文から学ぶ観点に加え、現実の新たな社会統合には更に何が必要なのか、を考えてみたいと思います。
  
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先ずはるいネットの記事、『日本人の初挑戦』をご紹介します。

人類は、これまで500万年に亙って、過酷な自然圧力・外敵圧力に晒されて生きてきた。しかし、人口増加による同類闘争の圧力が強まったその時、精霊信仰という観念機能しか持ち合わせていなかった縄文人は、共認原理を集団外にも延長する「贈与」という方法により闘争を回避した。
同類闘争に適応する統合様式は持ち合わせていなかった。
「おっとりとしたいい時代だぁ~」とばかり思っていた縄文社会とは、統合されたことのなかった時代だったのだなぁ…とビックリしました。
同類闘争の圧力に対し、私権の共認をもって統合してきた私達は、「私権統合」という借り物の社会統合様式を使いつづけてきた。
そして、私権統合が崩壊した今、同類圧力に適応するための統合様式を模索し始めている。
縄文人が成せなかった「共認原理による統合」に向かって、日本人は初めて自前の社会統合様式を生み出そうとしている。
「共認原理による統合」へと導くのは、役立たずの旧い観念を打ち砕く、潜在思念にぴったりと一致する新しい観念。私権原理の崩壊を経た私達だからこそ生み出せる新しい認識。
縄文社会と現代社会の違い。それは、共認回路は錆付いてしまっているけれど、社会統合理論を構築できるネットワークがあること。基盤は整いつつある。日本人の初挑戦はもう既に始まっている。

  
  
現在、社会の統合軸は、私権原理から共認原理へと根底から移行しつつあります。
『実現論』には、次のように書かれています。
(実現論2_2_06) 
  
  

本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。 

  
  
それでは、縄文人的精神基盤、本源的な共認体質とはどのようなものなのでしょうか。

■縄文人の本源性と当事者論  
  
  
 元々の問題である縄文人の“友好を旨とする受け入れ体質”の出所は、精霊信仰でも「自然との共生思想(そもそも縄文人はもっていませんが)」でもありません。本源集団(共同体)における仲間の助け合い精神、その原点は外敵に襲われた仲間を助けるという危機救助の精神ではないでしょうか。この単位集団内の共認原理を、他集団の人間に対しても延長適用すると“友好”“受け入れ”となります。
(中略)
>受け入れ体質の奥にあるどれだけ受け入れても決して変らない強いものがあるのではないかと思うのです。(同上)
 「変わらない強いもの」の究極の正体は、現在『社会統合』で議論されているところの、様々な外圧に対する“当事者意識”が長く残存したことではないでしょうか。社会圧力=私権闘争圧力に関してのみは当事者ではなかったでしょうが、それ以外の自然圧力、村内のもめ事、隣接する村とのいざこざなどあらゆることを自分たちで解決する(支配者層は関知しない)自治権を持っていたことが大きいと思われます。勿論、村(集団)内は本源共認が残存していたことが前提になります。
 縄文人の本源性解明が“当事者論”とつながる予感がしています。

    
  

■日本人の可能性 共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い 
  
西洋人/東洋人(その中でも日本人)の民族性の違いは、人間の本性である共同性がどれくらい残っているかによって規定されています。(『人類の本性は共同性にある』128695 128696)
東洋であれ西洋であれ、始原人類はこの共同性を育みながら、共認充足を最大の活力源として何とか生き残ってきた存在です。
約5000年前にイラン高原で勃発した人類最初の略奪戦争は、玉突き的に東西に伝播していきますが、皆殺しが常態となっていった西洋に比して、東洋は支配・服属という形が主流となります。特に、日本列島では、大規模な略奪戦争は発生せず、中国大陸の負け組みが渡来人として定着していきました。
この大規模な略奪戦争の有無によって、西洋人、東洋人、日本人、それぞれの共同性に大きな差が生まれ、民族性の違いを生んでいます。つまり、皆殺しにまで発展した戦争を経験した西洋人は周囲に対する警戒心が高まり共同性が失われ、そのような戦争を経験していない日本人は警戒心がそれほど高まることなく共同性が保持されています。
この「共同性」が影響を与えるのは、何も人間関係だけではありません。共同性の根本にある自分と相手を同一視する機能は、観念機能のあり方にも大きな影響を与えます。(対象物である自然との同一視を通じて作り上げられた日本の観念体系と、自然を警戒すべきもの→征服すべきものとして捉えて作り上げられた西洋の観念体系)
(中略)
自然への同一視、共同性が残っていたため、ここまで人間の主観を排除し続ける観念体系を築きあげることができたのでしょう。このような観念機能のあり方(頭の使い方)によって、現実を直視し続け、その本質をつかみ出すことができると考えています。

  
更に歴史的に見ても、日本の統合者階級でさえ、縄文体質、共認体質を残し続けていたようです。

■独裁者を許さない日本の風土
  
  
遥か遠いヨーロッパやイスラムのみならず、近隣の中国や朝鮮にくらべても、日本は唯一絶対の権力者を輩出しにくい国です。「調整能力に長けている」と揶揄されることも多い日本ですが、人類における究極の適応態(実現態)としてのあり方なのかもしれません。
—————–
日本の集団の歴史は独裁者の存在をゆるさないというふしぎな原理をもっている。
鎌倉幕府もそうである。源頼朝は自分の兵力をもたずに、関東武士同盟に擁されて成立したために、絶対権力ではなく、一種の調整機能というべき存在であった。だからこそうまくいった。あとで出てくる北条執権勢力も調整機能的存在であった時代はよかったが、やがて独裁化しようとしたときに倒された。
織田信長が日本史におけるもっとも独裁的な独裁者だったが、明智光秀という非合法的な批判勢力が出てきてこれを倒した。そのあとの豊臣政権は、最初は調整機能として機能した。しかしその政権後期、秀吉の自己肥大が病的になって絶対権力化したとき、その死後諸大名の心が離れ、徳川家康を擁した。
徳川政権はその成立の最初からごく相対的な調整機能としての権力であり、徳川将軍というのは、清帝国やロシア帝国の皇帝のごとく絶対的独裁者ではない。諸大名の上に盟主として乗っかった調整機能的な権力である。
幕府の行政組織においても、老中の合議制で運営され、各部局の長は、江戸町奉行がふたりであったように、決してひとりではない。ひとりの人間に権力が集中することを組織原理としておそれたというほかない。ただ例外が1件だけあった。
井伊直弼であった。かれは右の原理を無視し、自分ひとりに権力を集中させようとし、まず在来からあった大老職に就いたが、長つづきしなかった。在職1年11ヶ月で殺された。
源頼朝のころ、軍制として軍(いくさ)目付という存在があった。本来、軍事は総大将の独裁であるべきなのに、日本にあってはそうではない。たとえば源義経を頼朝は軍司令官として西上させる。その軍目付に梶原景時をつけた。軍目付は、本来軍司令官と同格であり、頼朝に直属しており、後世の制度でいえば参謀長、もしくはソ連の政治将校という性格にわずかに似ているが、要するに二人制なのである。義経は漂白者からいきなり武家社会に入ったため、この慣習がわからず、景時とことごとに衝突し、ついにそれがもとで自滅した。
以後、戦国期にも徳川期にもこの制度がつづき、近代陸軍の時代になっても、統帥は軍司令官、作戦は参謀長といったぐあいに二人制であった。参謀の制度はドイツ陸軍にまねたものだが、結局は日本的性格の存在になり、昭和期の陸軍ではそれがとくに濃厚であった。
司馬遼太郎「街道をゆく1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか」
——————
天皇制というのは最高の調整機能としての役割を担ってきたという1点だけで評価されるべきシステムかもしれません。

  
  
こうして見ると日本人はいつの時代でも、現実を直視し集団内における当事者意識を強く持ち、集団の共認充足を基盤とし、相手を肯定しする中で集団統合を行なってきたと言えそうです。
そして人間としての本性である本源性、共同性を色濃く残し続けてきました。
共認原理の時代を開くのは、このような本源性、共同性を有した日本人である可能性が高いと思われます。
一方で、集団内で統合するのは得意でも、集団を越えた社会全体の統合と言う観点で見た時にはどうなのでしょうか。
次回はそのあたりを考えてみたいと思います。

投稿者 sinkawa : 2010年08月30日 List  

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コメント

あけましておめでとうございます!
>この多極化の時代に適応するヒントが「部族連合」にあるような予感がします。
日本人は、遊びを捨て、課題そして追求に向かっているのは確実ですね。その先は、狭い集団を超えて「超集団」≒社会に向かっているようにも見えます。
どのような社会なのか?それも追求の一つになるのでしょう。面白い時代になってきたと感じています。
本年もブログもりあげていきましょう。

投稿者 Hiroshi : 2011年1月2日 18:40

おめでとうございます。
年初にいい記事を書いていただきありがとうございます。
最後の部分が面白いのでコメントさせていただきます。
>近代社会とは帝国の時代でしたが、その制度の限界性があらわになった現在、「多極化」というキーワードが注目されはじめています。この多極化の時代に適応するヒントが「部族連合」にあるような予感がします。
部族連合?というとピンとこない方もいると思うので
企業で言えば部門間の連帯とか、部門を越えた協働とかいうイメージでしょうか?
また都心一極集中に対して地方や地域が連携して緩やかな共同体を作っていくというイメージ。
さらに人間関係で言えば、会社人から社会人に広がっていくイメージ。
いずれにしてもこれまでの縦の関係が横の関係に変化していく事を示しているのだと思います。今年はこの横の連帯を強くしていく事が求められているのかもしれませんね。
hiroshiさんも仰られていますが、面白い時代になってきたのだと思います。

投稿者 tano : 2011年1月4日 13:10

Hiroshiさん tanoさん コメントありがとうございます。
お二人もあげられているとおり「部族連合」の時代の歴史の解明は非常に興味のある分野です。
ここからは漠然としたイメージですが、日本人の場合「個」の確立は非常に苦手ではありますが、「当事者」としての役割意識は非常に高いように思います。
これは本文中にも書きましたが、圧倒的な力の差や従属支配という関係がそれほど強くなく、僅差の力関係が社会をまとめる力の源泉(→当事者度の高さ)になっていたようにおもいました。
今年も発見の多い1年にしていきたいとおもいます。

投稿者 chai-nom : 2011年1月6日 10:32

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