火山活動から日本列島の成り立ちをみる~続編 |
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2007年09月06日
新旧モンゴロイドの混血による縄文人の形成
😀 くまなです
前回の「縄文人の故郷、スンダランド」の続きです。前回は2万年前までの状況を紹介しました。
約2万年前は氷期のピークで、今よりも平均気温で7~8℃低かったと考えられています。その後1.3万年間で温暖化し、約1.2万年前(縄文時代の始まる頃)には現在と同等の気温まで上昇しました。この気温の上昇に伴って、氷期に形成された(主に極地方の)陸上の氷や雪が融解したのと、海水の膨張により、海水面が100mほど上昇したと考えられています。
(当ブログ内のRさんの記事縄文時代の海水面、気候変動グラフを参考に、「海のほしと私たち」よりお借りしました)
スンダランドは赤道直下(北緯15度~南緯10度)にあります。現在は熱帯雨林気候ですが、氷期には温帯だったと考えられます。氷期において赤道直下の地域は温暖湿潤な気候であり、その行き止まりの半島部分に多くの人類が行き着いたと考えられます。
その上、海や川からの豊富な食糧、片面が海という防衛のしやすさ、侵食等により隠れ住む洞窟の多さが考えられ、しばらくすると人口も増加し、多くの人類が縄張りを接するように暮らしていたと考えられます。
そのような状況下で、気候が温暖化し、海水面が徐々に上昇し始めます。海岸沿いに住む人々は、住みか(洞窟)が失われ、縄張りが減少していきます。
内陸に進出しようとしても他集団がいます。一部には合流した集団もいましたが、大半は海側を島伝いに新天地を求めて出て行ったと考えられます。その第一波は、すでに5万年前、南東端の沿岸地方に住んでいた人々が、東に漕ぎ出し、島伝いに現在のオーストラリアに到達しています。
温暖化がすすみ、現在のフィリピンやマレー半島に囲まれた大陸棚地域も水没しはじめると、その地域の人類は同様に海側に新天地を求めて漕ぎ出していきます。その場合に、ちょうど黒潮の海流に乗ることができます。ただし、当時は大海原に漕ぎ出したわけではなく、漁業の技術も近海や河川でのものでしたので、あくまで島伝いに新天地を探索したと思われます。
現在でも、フィリピン近海から台湾、沖縄、日本をつなぐ海域は浅く、現在よりも島(陸地)も多かったのではないかと考えられます。
海面の上昇に伴って、同様にして海に出て行く人々が増えますが、皆同じような航路を取るため、途中の島々にはすでに先行して流れ着いた人々がおり、安住の地を得られず、さらに次の地を目指して漕ぎ出します。そのように、時代が進むにつれ、黒潮に沿って北へ北へと進んでいきます。
温暖化は1.2万年前まで続きますが、1.8万年前には上記のようにして沖縄に到達した集団がいました。それが港川人です。(湊川人の骨格はインドネシアのワジャク人に似ている日本人はるかな旅展)
そして1.2万年前には日本本土に到達しています(志風頭遺跡、栫ノ原遺跡など日本人はるかな旅展)。
スンダランドを出た旧モンゴロイドは、2万年前から、海面が再上昇する7000年前までの1.3万年の間に日本に到達します。船での移動なので人数は限定的ですが、波状的に多くの人々が渡来したと考えられます。
彼らは、温暖化と共に北上していったことから、環境の変化とともに、それまで培った生活技術(生産様式等)が可能な土地へと移動していったと言ってもいいでしょう。漁労技術や広葉樹林からの木の実を煮炊きする土器、小動物を捕獲する弓矢を持ち、その後の日本で人口を増やしていったと考えられます。
一方、北からのルート(新モンゴロイド)はどうなったのでしょうか。
その前に、 ぽちっと応援よろしくお願いします。
氷期において日本列島は、大陸と陸続きでした。いまの対馬海峡の部分と北海道・サハリン・ロシアで大陸から歩いて渡れたのですが、海面の上昇で1.4万年前には水没します。
それ以前から日本にやってきて住んでいた人々(新モンゴロイド)は、大陸からナウマン象や大角鹿を追って移動と定住を繰り返しながらやってきました。(ex.野尻湖遺跡ではナウマン象や大角鹿等の大型動物の骨や歯の化石の他、ナイフ型の打製石器などが発見されている。)
しかし、日本が大陸と離れたことで、それ以降の渡来はほとんど無くなったと考えられます。
縄文より古い、いわゆる旧石器時代(約3万年前~)の遺跡は、現在までに、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認されています。(ex.岩宿遺跡等、参照:日本の旧石器時代)
また、同時代としては最先端の磨製石器がすでに使われていたことがわかっている。(詳しくは、bunchanさんの旧石器時代に使われた磨製!?石斧を参照)
そのように、優れた技術で日本各地に広がっていた新モンゴロイドですが、温暖化による環境の変化が彼らを襲います。
それまで日本列島は、亜寒帯から寒帯の気候で針葉樹林帯に属していたものが、温暖化によって温暖湿潤な気候で広葉樹林帯に属するようになります。これにより、草原で動物を狩猟していた新モンゴロイドは、数を減らしながらも環境に適応し、狩猟中心から採集中心の生産様式へ移行していったと考えられます。
(これ以降の渡来は、縄文時代に稲作等の弥生的文化をもたらした人々=東アジアで拡大した北方モンゴロイドとなる。)
このように、縄文人の源流には南方系と北方系があります。古くは同じスンダランドを源流としてもち、北方と南方に分かれたモンゴロイドが、別々の文化を発達させ、およそ1万年前に日本列島において出会うわけです。そして、それぞれの基盤文化を融合しつつ縄文文化を形成していったと考えられます。
原日本語群といえるようなものはこの6千年前ぐらいに形成されたのですが、これは新モンゴロイド狩猟民族のツングース系言語の特徴である、主語の後に目的語が来る語順をベースにして、それに旧モンゴロイド系の語彙なども合わせて形成されたと思われます。もちろん同一系統の言語というだけのことで、そのまま互いに完全な意思疎通が出来るような同一言語ではなかったとは思われますが。
(KNブログ)
アジアやオセアニアで暮らす人々の歯には、大きく分けて、北東アジア系(北方系・弥生系)と、東南アジア系(南方系・縄文系)の二つのタイプがあります。現代日本人では、北東アジア系が七割、東南アジア系が三割いるそうですが、興味深いことに、縄文遺跡から発掘される人骨の歯を調べると、全てが東南アジア系だということです。前歯の裏側を舌で触れてみて、窪みが強ければ北東アジア系、平坦なら東南アジア系だそうですよ。
(米と酒と鳥と貝)
縄文人は、南方系と北方系のモンゴロイドが融合・混血するかたちで縄文文化が形成されていったのではないかと考えられます。
投稿者 kumana : 2007年09月06日 TweetList
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