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2007年12月28日

三内丸山は語る(2)

前回記事に続き三内丸山は語る~久慈 力氏の著書からの紹介です。
その前に当ブログでこれまで扱ってた三内丸山の記事を紹介します。
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた
巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
三内丸山のピーク時の人口は一般に500人程度、未発掘地域も含めれば1000人とみられているが、久慈氏はこの数字を多すぎると見ている。住居跡は各年代によって建て替えられ、重層的に利用したと考えられ、極端には一時期の人口が50人に過ぎなかったと見る人もいるが、せいぜい、多く見積もっても200人から300人程度ではないかと思われる。1000人以上になると確固とした農耕社会のようなものが形成され、プレ国家のような組織がないと継続しないが三内丸山には明確な農耕もなければ当然国家と呼べる組織もない。
縄文集落では200人という規模ですら他に例がない。ましてや500人や1000人という規模は単にセンセーショナルな情報で先進性と巨大さを強調しすぎているきらいがある。

縄文時代の生活領域は単一集落で普通、数キロの範囲に及ぶ。三内丸山の生活領域はそれよりはもっと広い範囲を生活領域としていたと考えられ、概ね10キロ程度が生活圏ではなかったかと推察されている。
%E4%B8%89%E5%86%85.jpg三内丸山全景
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岡田康博三内丸山遺跡対策主幹委員は三内丸山の集落の変遷について以下のようにまとめている。
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前期後葉期:住居は中央谷の西側から平坦部に構築される。貯蔵穴が住居の近くに点在し始める。大型住居も出現する。列状墓の形成が始まる。「廃棄ブロック」の規模が大きくなる。
中期前葉期:掘立柱建物、大型掘立柱建物が出現する。列状墓の真ん中を通る道路が作られる。北盛土、南盛土、西盛土が同時に形成される
中期中葉期:集落が最大規模に拡大し北、南、近野地区に展開する。
中期後葉期:大型住居はさらに拡大するが掘立柱住居は小型化し住居の外側に分布する。盛土の規模が縮小していく。
中期終末:集落が縮小し、空間利用の規則性は崩れていく。大規模集落は減少し集落が小型化、拡散する。
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三内丸山はその集落が孤立してあったのではなく、10キロの範囲の中に幾つかの集落が点在し、さらにその周辺に広範囲の流通網が存在した。それは北東北、南北海道まで広がっていたようである。三内丸山の大型住居はそれらの周辺地域との関係の中で成立していたと考えるべきであろう。(周辺地域は円筒式文化圏と呼ばれその範囲は後ほどで詳述します。)
三内丸山は晩期急速に衰える。
最大の原因は寒冷化による海退から海が遠くなり、海産物による生活に狂いが生じた事、主食になるクリが寒冷化によってあまり実を結ばなくなった、食料が減少し人口が増えた集落を維持できなくなった事、そこから人口が分散し、周囲の集落の中心的機能が果たせなくなったこと、などが考えられる。三内丸山が急速に衰退したのは紀元前2000年頃であり弥生文化との接触ではなかった。
さて、ここからはこの著書の中に書かれてあった三内丸山の幾つかのポイントを紹介したい。
まずは三内丸山は誰が築いたか?
三内丸山は北方系と南方系の文化の融合地域であったと考えるのが自然であろう。
人種的な特徴を見ても石器、栽培作物、言語などの文化的特徴を見ても両者の分化が重なっていることがわかる。栽培にされたとされる作物はゴボウ、ソバは北方系であり、ヒョウタン、エゴマなどは南方系である。浜田秀雄氏は著書の中で縄文中期に日本列島に入り込んだのは龍山文化を築いた歳族であり、殷族に追われて満州から東部シベリアに進出し、日本列島にも流れたとしている。つまり、中国系である歳族が三内丸山の滅亡に影響を与えたのだろうか?またその後、豹族が東北日本に進出し亀ヶ岡文化を築いた。彼らは毛人、クメール族であるとしている。彼らはもともと中国南部からインドシナ半島を経て、中国の海岸部を北上して朝鮮半島経由で日本列島に上陸し関東から東北に至った。つまりもともとは南方系であると展開している。

中国東北部に円筒式文化圏が・・・
三内丸山と中国の関係を示す証拠がある。
98年12月に中国を訪れた東奥日報社と北日本新聞社の共同調査団によれば、中国東北部の遼寧省の牛河梁遺跡に代表されるように、環状列石、円筒状土器など、三内丸山と共通した分化が存在する。しかも、ほぼ同時代に存在したということは、日本海を挟み、1700キロの距離を越えて、共通の円筒文化圏を形成していた可能性もある。同行した青森県教育庁の岡田康博氏は述べる。「円筒状の形や模様、決状耳飾り、石刃族・・・。中国東北部から出土する遺物のすべてが三内丸山と同じ。文化の関連性を考える上でこれ以上何が必要なのか、と言いたくなるくらいです。同時多発などの言葉では説明できないでしょう」

三内丸山が単なる縄文時代の1拠点ではないことが想像できます。中国から文化を携えて一族が流報告はないようです。いかんせん中国の奥地です。今後のあたらな報告を気長に待つ事にしましょう。
第2弾で三内丸山の大きな経過、発祥、周辺との関係を見てきました。
次回はさらにその社会構造に迫ってみたいと思います。  by tano

投稿者 tano : 2007年12月28日 List  

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コメント

ストーンサークルはなるほど。と思いました。
どうも、祭祀という意味合いが強いのかな?という理解でとどまっていたのですが、精霊信仰にあわせて、活力・充足の再生と考えるとより縄文人の意識も鮮明になりますね。

投稿者 さーね : 2008年1月17日 22:15

さーねさん、コメントありがとうござます。
ストーンサークルは、成員の死に際して活力・充足の再生の意味が感じられます。また、その形状から「性=活力・充足」への願いも込められているようです。
死と生(性)が活力再生という点で繋がっていて、さらに性=充足が成員や部族の祭祀の場=結集軸になっていた、と考えられます。
生(性)と死が石という精霊を媒介にして統合されていたのです。

投稿者 くまな : 2008年1月18日 00:33

>死と生(性)が活力再生という点で繋がっていて、さらに性=充足が成員や部族の祭祀の場=結集軸になっていた、と考えられます。
なるほど。
となると縄文人の性生活がどのような形態であったのか知りたいです。

投稿者 mrran : 2008年1月24日 22:03

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