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2011年07月30日

縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に

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「縄文晩期とはどのような時代か」シリーズ
●~はじめに~
●1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
 
第二弾です。
 
日本の歴史は渡来民が大量にやってきた弥生時代に稲作の拡がりともに大きな変化が訪ずれました。稲作の伝播をもって弥生時代と命名されており、教科書的にはこの時代をもって日本の文明は始ったとされています。
しかし渡来民は縄文晩期には既にかなり日本列島に到達しています。また、稲作についても既に縄文晩期には九州で始っており、弥生時代は500年早まったという説が登場しています。
 
しかし、縄文晩期と弥生時代ではやはりある一定の線引きがあるのではないでしょうか?
強いて言えば縄文晩期の渡来民は平和的に縄文人と融合し、弥生時代以降特に中期以降は渡来民同志が日本列島の中で戦争を始め、私権時代に突入しています。
弥生以降を私権社会の始まり、縄文晩期はその前夜だと捉えるとこの2つの時代の堺は見えてくるように思います。
  
この戦争の始まりをどう見るかはこれからの追求テーマとして置いておくとして、縄文晩期の平和的融合についてはこの時代の分析として触れておく必要があるように思います。
 
ということで、今回は縄文晩期における縄文人と渡来人との平和的融合の状況を探っていきます。
 
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まずは、縄文晩期を特徴付ける銅剣、銅鐸について見ていきます。この2つは導入の時期の前後はありますが、ほぼ同時代に地域を分けて存在しています。
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●銅剣、銅矛、銅戈と銅鐸の分布 
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※画像はこちらからお借りしました
 
 
銅剣や銅矛、銅戈が北九州を中心として中国地方瀬戸内側に広がった西側渡来民文化圏となっています。一方の銅鐸は出雲を西端とする近畿から東海まで含めた東側渡来民文化圏となっています。そしてこの2つの地域は島根、岡山の辺りで交わっており、出雲には銅剣も銅鐸も出土しています。
 
そして、これら銅剣や銅鐸の青銅器文化は朝鮮半島から持ち込まれたとする説が主流でしたが、青銅の産地を分析してみると、実は中国の江南地方産であることがわかってきました。
 
●鉛同位体比による青銅産地の分析(縄文晩期の青銅)
douitaihi.gif
 
縄文晩期の青銅器の鉛同位体比は、上のグラフの直線Lにほぼ乗る形となります。一方、江南産の青銅を同様にグラフにプロットすると、以下のようになります。
  
 
●鉛同位体比による青銅産地の分析(三星堆、雲南省の青銅)
sanseitai.gif
※グラフはこちらからお借りしました
 
これによると、縄文晩期の青銅器の鉛同位体比と、中国三星堆、雲南省(江南地方)の青銅の鉛同位体比とが、同じ直線上に乗る形でよく一致しています。
つまり、縄文晩期の青銅器の産地は、中国の江南地方であったということになります。 
 
 
●日本に最初に青銅器文化を持ち込んだのは誰か
従って、縄文晩期の青銅器文化が中国江南地方から持ち込まれたものとすると、日本に青銅器が持ち込まれたのがおよそ前4世紀頃ですから、おそらくその頃の江南地方の呉、越からの避難民が日本に青銅器文化を伝えたということになります。
 
段階的には、前473年に呉が越に滅ぼされ、このときの呉からの避難民が日本に青銅器文化を持ち込んだ第一波となり、九州北部や西沿岸部を中心に定着します。
 
その越も前334年に楚に滅ぼされることになり、このときの越からの避難民が日本に青銅器文化を持ち込んだ第二波となった。但しこのときはすでに九州北部に呉からの避難民が定着していたため、それを避ける形で九州から海岸沿いに東へ進み、日本海は出雲から越地方へ、また関門海峡を越えて瀬戸内海、豊前から豊後、伊予、日向へ向かった
 
この呉、越からの第一波、第二波の避難民によって、上述の銅剣、銅鐸文化圏が形成されていったものと考えられます。
 
 
●銅鐸の特徴も中国のものと酷似
実際、中国沿海部の江蘇省無錫市の遺跡で、越の国の貴族のものとみられる墓から、日本の銅鐸(表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている)の特徴とよく似た磁器の鐸が出土しています(銅鐸は中国から。後の朝鮮移民が朝鮮からに塗り替えた。)。
逆に朝鮮のこの頃の銅鐸には模様がなく、つり手もないため、日本の銅鐸の特徴とはかなり異なっており、これも朝鮮から伝わったものではないことを示しているように思います。
 
 
***
ちなみにこれら銅剣、銅矛、銅戈は、伝来時以降徐々に大型化し、刃もなくなっていきます。これは、元々は武器であった銅剣、銅矛、銅戈が、日本に伝来してからは、祭祀具として使用されるようになっていったことを示しています。 
 
 
以上2つの青銅器文化圏の移動経路、出自を探ってみましたが、共通して言えることは縄文晩期から弥生前期のこの時代は中国からの渡来が圧倒的に多く、日本の渡来文化の発祥はおそらくは中国の長江―さらにその後の呉越から起きていることが伺えます。
稲作も青銅器も全て一旦は中国から直接日本に渡来しているということです。
 
 
●朝鮮からの影響が大きくなるのは弥生後期以降
同時期の朝鮮半島は同じように江南から日本以上に大量の移民がありました。
朝鮮土着民を取り込み国家作りを初め馬韓、弁韓、辰韓といった三韓が日本の弥生時代中期にはできあがります。その後、ツングース族の南下によって朝鮮半島で国作りが行なわれたのは高句麗が出来て以降、AD300年以降の事です。日本に朝鮮半島から避難民が大量に押しかけたのはおそらくは弥生後期、古墳時代の始まるAD200年以降の事だと推察されます。
従ってそれ以前の朝鮮半島からの渡来は少数でかつ王族などはまだ誕生しておらず、日本列島に渡来していたとしてもはるかに影響力の小さい存在だったと思われます。
 
 
ここで見えてくるのは既に縄文晩期から日本に渡来し、縄文人と融合し既に稲作を始めていたのは中国であり、彼らが、朝鮮半島から渡来が始まるはるか700年以上前に日本列島で先住化していたということではないでしょうか。
 
 
日本の歴史は全て朝鮮半島から後で来た王族が書き上げた。だから古事記も日本書紀も中国の先住民の事にはほとんど触れていない。オオクニヌシなどは明らかに中国からの出と思われますが、それを朝鮮由来のスサノオの子とすることで、中国由来を消しているように思えます。
従って朝鮮からの渡来民と中国から先住していた移民は日本列島の中でしばしば争いになったのではないでしょうか?
 
 
●土器の変化に見る渡来人との融和的共存
この朝鮮半島からの渡来が始まるまでは戦争の形跡はほとんど見つかっておらず、従って非常に融和的な関係で縄文人と渡来民は混血していったのでしょう。それを示すものが同じ地域に並存する土器の遺跡です。
 
■ 岡山県津島遺跡
岡山県の津島岡大遺跡では、縄文系の突帯文土器のみが出土。そのわずか700メートルの距離にある同時期の遺跡である津島遺跡には、縄文系と渡来系の融合型となる「遠賀川様式」と呼ばれる土器が大半を占めますが、一部、津島岡大遺跡に見られる縄文系の突帯文土器も含まれています。
つまりここでは、縄文系の集落と渡来系の集落とで交流があった形跡が残っています。
 
☆遠賀川様式の土器の成立図
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■近畿の河内潟周辺の遺跡
大阪府にある同時期の長原遺跡と八尾南遺跡は、距離はわずか500メートル程度で非常に近接した位置関係にあるものの、前者は縄文系の突帯文土器が出土し、後者は遠賀川様式が出土しています。
ここでは縄文系の集落と渡来系の集落とが住み分けをしていたことが伺えます。
 
総じて、西日本各地での遠賀川様式の土器が各地域ごとに個性的で強い地域色を持っており(集落毎に独自の発展を遂げている)、上記のように縄文系の集落と渡来系の集落とが共存、交流していました。
 
 
また、上述の武器としての青銅器(銅剣、銅矛、銅戈)が祭祀具へと変化していった事例も、まさに縄文人と渡来人とが融和的に共存、混血していったことを示しています。
 
 
 
●今回の記事から見えてきたものとは
以上、銅剣文化圏と銅鐸文化圏の並存と武器⇒祭祀具への変化、土器の並存、それらから縄文人と渡来民の融和的共存の足跡を明らかにしました。縄文人は元々戦争をしらず、来たものを受け入れる素地がありましたが、この渡来民との平和的関係が成立した500年間をもってその後の日本人の舶来思考、平和的外交の基礎が作られていったのではないでしょうか?

投稿者 nishi : 2011年07月30日 List  

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