縄文探求シリーズ【縄文時代の人口】~東高西低は本当か?(その2) |
メイン
2011年03月02日
日本人の起源 14 ~日本人=多様な人種の融合
(グラフは、日本人の源流を探して 様より引用しています)
昨年9月にスタートした、シリーズ「日本人の起源」も今回が第14回目。
今回の記事は、全14回にわたる追求をひとつの図解としてまとめるという課題にチャレンジしました。
この図解化の作業はほんとうに気付き 😮 と驚き の連続でした。
学校で教えられた縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良という時代変遷の背後には、大陸からの渡来人との攻防、共生など様々な闘争の歴史があったのです。
そして今回の図解化にあたってひとつの導きになった研究成果が、「DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか? 」(崎谷満著)で発表されている、
日本では少数になっているが、今でもc3系統、Q系統、N系統、C1系統が存続しており、こうしてみると、日本列島には東アジアの古い歴史に関わる貴重な人々が今でもそのDNAを保存することができたこと、時代ごとに東アジアの変動を表すヒトの避難場所として古いものから新しいものまで重層したヒト集団の複雑な構造を示している事などの点で、貴重な地域であると考える事ができる。
という認識です。
欧米などに比べ日本は単一民族(=閉鎖的社会?)という先入観を大きく転換させました。
「日本人=多様な人種の融合」という認識は、縄文以降続く長い歴史の中で、普遍的な部分と可変した部分がともに残り現在まで続いている日本の「今」をあらわしているとおもいます。
外圧から隔離された孤島の島国でもなく、常に最新・先端の世界的外圧状況にさらされながら集団として適応し、かつ、古来より続く縄文体質(共同体気質)を残している今の日本の姿 です。
共同体気質が現代まで残っている 😀
(期待・応合=共認充足がすべての活力源)
警戒心が低く、応合性が高い
(現実を否定せず受け入れる思考)
モノを考えることが苦手
(架空観念や固定観念を必要としない実現思考の持ち主でもある)
天皇制が現在も続いている
(支配階級と庶民の思考ははじめから分断しているが、それぞれで共生している)
などなど、わたしたち日本人が無意識のうちに行う行為や思考が、どのような歴史の塗り重ねで形成されたのかが、今回の図解化をつうじて見えてきたような気がします。
いま日本や日本人の可能性を追求する書籍やテレビ番組は人気があります。
安易な日本人賛美は歪んだナショナリズムを生み出しますが、事実に則して日本人の可能性とこれからの課題を見極めることは、非常に有意義な課題でした。
長い前置きになりましたが、図解と本文を合わせてじっくりと読んでみてください。
日本人の起源 ここをクリックしてください
〈三内丸山遺跡〉
■縄文人の形成~縄文社会の形成
3.3万年前~1.1万年前の間に、大きく4回の気候変動によって新人が日本列島に移動し、融合しながら縄文人が形成されていきました。
・3.3万年前~2.7万年前の寒冷化に伴い、北方モンゴロイド (C) が地続きの樺太から日本列島に移動
・2.1万年前~1.8万年前の寒冷化に伴い、バイカル湖周辺の中亜モンゴロイド (C3) が日本列島に移動
・1.4万年前頃までに、スンダランドから島伝いにスンダモンゴロイド (C1) が漂着
・1.3万年前~1.1万年前に、地続きの北海道側からスンダモンゴロイド (D2) が日本列島に移動
その中で縄文人の中心となったのは、1.4万年前の温暖化によるスンダランド水没に伴いモンゴル高原に北上し、1.3万年前~1.1万年前のヤンガードリアス寒冷期に南下して地続きの北海道から日本列島に移動したスンダモンゴロイド (D2) だと考えられます。
この段階で、南方出自で狩猟・採集・漁労を営む縄文人が形成されたと考えられます。
その後なんと約8000年間もの間、大陸から切り離された僻地ゆえに外部からの大規模な移動がなく、日本の気候風土に同化し、私権闘争とは無縁な共同体社会=縄文社会が形成・醸成されていきました。約5000年前には、三内丸山の大規模集落が形成されます。
約3000年前に、中国江南地方での争いから逃走した苗族(スンダランド発の原中国人 (O2) )が渡来し稲作農耕を伝えましたが、縄文社会に取り込まれていったと考えられます。
※稲作農耕の伝来を持って弥生時代に入ったとする説もありますが、縄文社会が変わらなかったことにより縄文時代に区分しています。
〈吉野ヶ里遺跡〉
■弥生社会の形成
約2500年前から2200年前、中国大陸の春秋戦国時代の闘争により呉、越から逃走した人々 (O2) が渡来し弥生社会が形成されました。2200年前に渡来したのは、倭人 (O2) である徐福が率いて秦から脱出して来た人々ではないかと考えられます。
2300年前には吉野ヶ里に大規模集落が形成されています。この段階では遊牧騎馬民族はまだ渡来していないと考えられます。
約1900年前、高句麗、扶余の圧力により朝鮮半島の三韓から逃走した人々 (O3) が渡来、ツングース系遊牧騎馬民族が日本列島に登場しました。彼らが葛城氏、秦氏と思われ、その後ヤマト王朝成立に向けて徐々に力を付けていきます。
〈伊勢神宮〉
■王権の胎動期~日本国の成立
日本の最初の部族統一国家たるヤマト王権(政権)については諸説ありますが、たとえば、古代史学者の 山尾幸久は以下の区分を提唱しています。
・190年代-260年代 王権の胎動期。
・270年頃-370年頃 初期王権時代。
・370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)
※卑弥呼が死んだのが248年、第10代の祟神天皇(神功皇后)の即位が3世紀後半ごろ、このころ三輪王朝(リンク 「王朝交代説」 とも呼ばれるヤマト政権が誕生されたといわれています。
その後、河内王朝(応神天皇)→近江王朝(継体天皇507~)がつづきます。
・このころ韓半島では313年高句麗により楽浪郡が滅亡、その後百済建国(346)、新羅建国(369)、による玉突きで韓半島南部の敗族が日本に亡命してきます。(紀元前4世紀を1波とすると、この時期は第3波 (O3) )
・このころ国内では鉄交易で富んでいた葛城氏が勢力を伸ばし、「葛城王朝」が並存(支援)していたと言われています。
その後継体天皇の時代に九州の磐井の乱を鎮圧した物部氏や、その他大伴氏が勢力を伸ばします。
しかし国家祭祀を巡る蘇我氏との神佛紛争による、丁未の役(587)で物部氏は敗退します。
以後蘇我氏が朝廷を支配したが、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺されるとともに蘇我蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下します。
藤原氏は、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まり以降勢力を伸ばし、平安期まで続きます。
※弥生期の部族割拠の時代から、3世紀後半に「国譲り」によりヤマト王朝が天皇を戴き、畿内の部族統一を果たしたものと思われます。
このころから既に、祭祀を担う天皇家と政治行政を担う支配部族、という構図がほぼ出来上がっているようにみえます。
そしてこの天皇家と支配部族の両方に、何波(5波)にも渡る韓半島からの渡来人の血 (O3) が入っているというのが、古代日本の様相のようです。
いかがでしたか。
「日本」という国家が誕生するまでにはこんなにもたくさんの歴史があったわけです。
しかし、歴史の時間だけで考えれば、「日本」が誕生した700年から現在はおよそ1,300年。これに対し、1万年以上続いたとされる縄文社会は10倍以上の歴史があります。この時代に培われた 「縄文体質=共同体性(仲間第一)と実現思考(しなやかな思考)」 が現在の日本にも息づいているとおもいます。
シリーズ「日本人の起源」は今回をもって完結になります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これからも古代史の追求は続けていきます。新テーマにもご期待ください。
投稿者 chai-nom : 2011年03月02日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/03/1204.html/trackback