2011年3月28日
2011年03月28日
シリーズ「人類の部族移動」その3~南方モンゴロイドの拡散と新モンゴロイドの誕生 ~
画像はこちらよりお借りしました
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これまで
シリーズ「人類の部族移動」その1~人類史を追求する意義と視点
前回
シリーズ「人類の部族移動」その2~モンゴロイドの誕生と拡散~
ここでは日本人には多種多様な系統がある。また、最も主流を占めているのが、“D2”であり、次に“O2b”で、南方のフィリピン方面からの“C1”や北方の樺太方面からの“C3”の系統は少数派であることが解る・・・でした。
今回はこのD系O系の南方系モンゴロイドの部族移動に着目して追求します。
ところで
上図の骨格は縄文人と渡来系弥生人(騎馬民族系)との比較です。一般にはこういわれています。
・古(南方)モンゴロイドは、南方系で背が高く手足も長く体の表面積に比べて表面積が広いので体温を奪われやすく寒さに弱い。顔も彫が深い。
・新(北方)モンゴロイドは、北方系で手足が短く背も低いので熱効率がよく寒さに強い。顔も扁平である。 😛 (いわゆるずんぐりむっくり) :blush:
ただ最初に日本列島で暮らし始めたのは縄文人であることは間違いありません。
骨の形をみるとどうやら縄文人は南方系の適応をしています。
我々の祖先の縄文人は南方系か北方系か?どちらなのでしょうか?
その参考になる投稿を紹介します。
’10年末なんで屋劇場レポート3~南方モンゴロイドの拡散と新モンゴロイドの誕生
●南方モンゴロイドの拡散
他方、南方のモンゴロイドは温暖湿潤で豊かなスンダランドを中心に、大きな移動を起こすこともなく、定着して南方に適応的な形質を強めていったが、1.4万年前から6千年前の温暖期には、極地の氷床が溶け出したことでスンダランドの海没が始まり、南方モンゴロイドの拡散が始まる。
その内の一派は太平洋へと乗り出していき、ポリネシア、メラネシア人となり、インドへと流れ込んだ一派がドラヴィダ人となり、中国へ進出した人々が現在につながる原中国人となった。(バイカル湖周辺にいた北方モンゴロイドも南下し合流したと思われるが、前述の通り免疫力に劣るため、少数派となった。)
また1.4万年前の温暖期に、D祖型のモンゴロイドがスンダランドからモンゴル高原へと進出した。しかしそのすぐ後、1.3~1.1万年前の極寒化に伴い、一方では西回りにチベット方面へ、もう一方では東回りに南下し朝鮮半島を越えて日本へとやって来た。前者は、チベット族(D1,D2)となり、後者は縄文人(D2)となった。
以上、南方系モンゴロイドの系譜を模式図にまとめる。
この表で楕円で囲んだところが新(O3系)旧(D系)少数派(C3系)のモンゴロイドである。
下図ではy染色体の系統分析でのルーツでは、日本人には縄文人の特徴を示す(D2)が主流であり、北方騎馬民族の特徴を示す(O3)の因子ももっていることがわかる。 🙄 🙄
●新しい北方適応モンゴロイド=新モンゴロイドの登場
1万年前、温暖化すると、スンダランドからパミール高原・タリム盆地に北上していたO型モンゴロイドがさらに北上してアルタイ山脈・モンゴル高原に進出し、新たに北方適応したO3タイプの北方モンゴロイドとなる。このタイプが後のトルコ族、モンゴル族、ツングース族といった現存する北方モンゴロイドの祖となる。この新しく登場し、現在につながる北方モンゴロイドをほとんどが絶滅してしまったC型の旧い北方モンゴロイドと区別するために新モンゴロイドと呼ぶことにする。このO3モンゴロイドはこの後、中国へ進出すると、豚の家畜化に伴って強い免疫力を獲得したためと思われるが、中国人の主流となって行く。現存する中国人は、華北では66%、華南でも33%、チベットでも33%がO3タイプである。
ただし、日本ではO3タイプの比率はそれほど多くなく、都道府県によるばらつきはあるが、24~14%といったところである。これは同じO3タイプでも免疫力を獲得しないまま日本に到着したためと考えられる。(免疫力の強さと遺伝子タイプは必ずしも一致しないと考えらるべきだろう。)
1.4万年前の温暖期に、D祖型のモンゴロイドがスンダランドからモンゴル高原へと進出した。それが日本に渡った。それはアイヌも同様である。縄文人の系統はD系統が主流であり、その系統はもともと南方系であることがわかる。その後このy染色体の型が示すように弥生系渡来人と混血していったことがわかる。
分子生物学の観点からも面白いデータが見つかりました。
つづきます。
投稿者 tennsi21 : 2011年03月28日 Tweet