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2011年02月07日

縄文探求シリーズ【縄文時代の人口】~東高西低は本当か?(その1)~

 こんばんは、カッピカピです。 😛
 これまで、縄文人の『食』と『植生』について記事を書いてきましたが、今回はその集大成として、縄文時代の『人口』について書いてみたいと思います。
 人口量や人口密度は、その社会の生業や構造のあり方に深く関わっており、社会や文化を研究する上で欠かすことの出来ない問題と言えます。しかし、先史学の分野での人口に関する研究は一般に不振でした。それは、考古学の取り扱う資料が、偶然に保存された遺跡や遺構、および自然遺物などのモノであり、人口とか社会組織などの現象はすでに消滅してしまっているからです。
 このような難問に対して、先人達はどのようにして答えを出していったのでしょうか。まずは、これまで行われてきた先人達の研究成果を紹介していきたいと思います。
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 縄文時代の人口はどれくらいあったか―。
 この疑問に初めて答えを出そうと試みたのが山内清男氏です。山内氏は
「北海道を含む全人口を15万ないし25万人とし、その分布は西南に薄く、九州から畿内にかけてが3万から5万、東北部は人口が一様に多く、中部、関東、東北、北海道はそれぞれ3万から5万とみておけば、大した間違いはないだろう」(日本原始美術1 縄文式土器より)
と、縄文時代の人口を推測しています。この数値の根拠は、日本列島の縄文式文化圏の面積がアメリカのカリフォルニアの面積に近似していること、そしてそこには、白人進入の初期に15万~25万ぐらいの先住民が暮らしていたとするアメリカ人学者の推計にあったことに由来しています。
 つまり、山内氏の推定の根拠は、同じような環境で同じ狩猟採集の生活を送る人々の人口は同じくらいになるであろうという環境決定論で、縄文時代を通じて大きな人口変動はなかったという前提に立っています。
 しかし、縄文時代の人口は決して固定的ではなく、千年紀を単位にして大きく変動していたであろうことは、遺跡の数やその規模の変化から誰しもが予想していたことでした。
 それでも、「遺跡の数から人口を数えるのは正気の沙汰ではない」(山内氏、前掲書)という雰囲気が支配的な中、誰も遺跡数を根拠に縄文時代人口の推計をしようとはしませんでした。
 ところが、この考え方に勇気ある挑戦を試みた研究者がいました。それが小山修三氏です。
 小山氏は、文化庁編纂の『全国遺跡地図』における遺跡地名表を地域ごとに早期・前期・中期・後期・晩期・弥生・土師器の時代別に遺跡数を数え、その遺跡数にある係数を乗じることで縄文時代の人口を推算したのです。
 これまでの説は、研究者の経験と直感によるものだったり、日本列島の人口密度を均一と仮定したもので、地域差が無視されているというものでした。
 それ対し、小山氏の人口推定は、遺跡調査の粗密や移動の問題を無視ししている点や、さらに時期や規模を無視して1遺跡当り何人と、同じ数を割り当ててるなど、多少の問題点を含みながらも、1万年に渡る縄文時代を通じて、五つの時点で地域毎に人口量を明確な数値で示しており、縄文社会の構造を知る上で、非常に有益な資料であると言えます。
 その小山氏の推計によれば、縄文時代の人口は、早期(8千年前)から前期(6千年前)にかけてゆるやかに増加し、その後、急速に増加して中期(4千3百年前)にピークに達し、晩期・後期にかけて減少することが分かりました。
 また地域別の特徴としては、西日本(九州、四国、中国、近畿)では、人口量は少ないが、時代を通じて微増を続けており、中部日本(中部、東海、関東)は、人口量が多く、中期にピークがあり、その後急激な減少が起こっていることが分かりました。また、北日本(東北、北陸)では、中部日本と似た傾向がみられるが、後晩期の減少は少なく、むしろ停滞する状態となっています。つまり、地域によって異なる人口動態があることが確認されたのです。
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表は「日本人の起源」よりお借りしました。
 まとめると・・・・
遺跡数から算出した縄文時代の人口曲線は人口が中期に最大となり、それ以後は減少する
東日本と西日本では人口量に大きな差がある
の2点となります。『東高西低は本当か?(その2)』では、このような縄文時代の人口変動はどのようにして引き起こされたのか、そしてこのような地域分布がもたらされた原因はどこにあるのかをみていきたいと思います。

投稿者 hi-ro : 2011年02月07日 List  

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コメント

これまでの歴史は大抵東洋史と西洋史を別々に倣うことが多かったのですが、両者を俯瞰してみると、西洋での略奪の玉突きで、東へ東へと部族が押しやられ、中国に押し入ってきていることがわかりました。
特に遊牧部族にとっては、インド経由ではなく、イラン高原、パミール高原からチベット高原やモンゴル高原などを通って中国にいたる経路の方が、移動しやすいと言うことなのだろうと思います。
その意味では、東洋の真ん中といっても、結局中国が一番、西洋の略奪の玉突きの影響を受けているのでは、と思いました。

投稿者 鯉太郎 : 2011年6月9日 11:14

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