2011年2月28日
2011年02月28日
縄文探求シリーズ【縄文時代の人口】~東高西低は本当か?(その2)
こんばんは、カッピカピです。:D
前回の『東高西低は本当か?(その1)』にたくさんのコメントを頂き、ありがとうございました。今日は、【縄文時代の人口】パート2として、コメントに入れて頂いた疑問を交えながら、前回ご紹介した小山氏の人口論を検証していこうと思います。
まずは、前回の記事の論点を整理します。
これまでの人口説は、研究者の経験と直感によるものだったり、日本列島の人口密度を均一と仮定したものだった。
遺跡数を根拠に縄文時代の人口をはじめて推計したのが小山修三氏であった。
その小山氏の説によれば、縄文時代の人口は東高西低で、地域差が非常に大きく、下記の3つの異なったパターンを示していることが分かった。
パターン1 関東・中部
・縄文中期に高い人口密度をもつ。
・後期の人口減が最も大きい。
パターン2 近畿・中国・四国・九州
・西日本の人口密度は一貫して低い。
・中期から後期にかけて減少した地域はなく、晩期に入ってからも安定的。
・弥生時代に入って急激に人口が増加
パターン3 東北
・中期にかけて人口が増加
・晩期にわずかな減少
・縄文後期から弥生時代への変化は穏やか
ここで注目したいのが、東日本の人口密度の高さです。縄文中期をとってみると、東日本7地域の人口は25.2万人と総人口のなんと96%も占めています。これに対して、西日本7地域ではわずかに9500人でしかなく、東日本の人口は激減した晩期でさえも86%を占めています。これが縄文時代の人口が東高西低と言われる所以です。
本編では、この東高西低論に対する反証を交えながら、この人口分布が形成された理由を探っていきたいと思います。
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投稿者 hi-ro : 2011年02月28日 Tweet